ドアを開けた先に広がる、庭の緑と飴色のカウンター
喧噪の青山通りから一本入った、アイビー通り。青山学院大学のアイビーホールの真向かいに、蔦に覆われた一軒家がある。一見お店には見えないが、ここが1988年創業の喫茶店『蔦珈琲店』である。知らない人は、お店だと気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない。
そっとドアを開ければ、途端に香ばしいコーヒーの香りと、音楽と、楽し気なさざめきに包まれる。目の前に広がる素敵な庭の緑と、長いカウンターテーブル、そしてにこやかに立ち働くマスター。喫茶店好きなら、一瞬でこの店を気に入ってしまうこと請け合いだ。
綺麗な庭を眺めたい人は窓際の席へ。青山の一等地で、緑に囲まれてのんびりコーヒーが飲める贅沢を噛みしめよう。カウンターに座れば、マスターがコーヒーをドリップするたびに立ちのぼるすばらしい香りが楽しめる。人生経験豊富で話し好き(そしてちょっと女好き)のマスターとのおしゃべりは、日頃のストレスを吹き飛ばしてくれそうだ。
意外な組み合わせが人気。マスターこだわりのストレートコーヒーとカマンベールチーズ。
マスターが焙煎前のコーヒー豆を見せてくれた。お店で扱う豆は1種類、サントスNo.2のグリーンビーンズ(新豆)のみ。一般的には苦みが強いのでブレンド向きといわれるが、マスターはその香りの良さと、苦みの中のほのかな甘みを生かして焙煎しているという。
コーヒーは、注文が入るたびに、ネルで丁寧にゆっくりとドリップしてくれる。ちなみにネルは良い状態を保つため、お店で手縫いして1週間に一度は交換しているのだとか。
細かくドリッパーを動かしながら、表面に泡をほとんど立てずにコーヒーを落としていく様子はまさに職人技。ついついコーヒーの注文が入るたびに見惚れてしまう。
こちらが、コーヒー700円(税込)。ちなみに、アイスコーヒーやカフェオレも、全て同じコーヒーを使っているというから、季節や気分に合わせていろいろ試してみたい。
豊かな香りを楽しみつつ飲んでみると、苦みはあるが強すぎず、ほんのりと甘さも感じるまろやかな飲み口。雑味もなく、とてもバランスがいい。
メニューにはケーキやプリンなどのスイーツももちろんあるが、異彩を放つのがコーヒーとチーズ950円(税込)。あまり見かけない組み合わせだが、これが食べてみると意外に合う。マスター曰く、「コーヒーとスイーツは苦みと甘みの対比を楽しむものだけど、コーヒーとチーズは酸味やコクが似ていて、いわば足し算の楽しみ方」なんだとか。確かにチーズと合わせて飲むコーヒーは、よりその甘味が引き立って味わい深い。毎日でも食べたくなる、癖になる美味しさだ。
森のようなクレソンサラダが嬉しい。ちょっぴり辛口な大人のクロックムッシュセット
たっぷりのクレソンサラダが添えられたクロックムッシュセット1300円(税込、コーヒー付き)もこの店の名物のひとつ。
ザクっと軽いイギリスパンに、チーズとベーコンをたっぷり挟んだクロックムッシュは、ブラックペッパーとガーリックが効いたやや辛口の味付けで、ボリュームもたっぷり。森のようにこんもりと豪華なサラダは、オニオンドレッシング仕立ての豆苗やグリーンカールと、岩塩でシンプルに味付けされたクレソンの2層になっている。栄養バランスも良く、喫茶店の軽食というより、ホテルのちょっとリッチな朝食のようだ。
お皿の中央に鎮座するヤクルトにはなにか深い意味があるのかと思ったら、マスターがヤクルトレディに会いたくてつい契約してしまったのがそもそもの始まりだという。常連さんがそんな話を嬉しそうに教えてくれるところも、このお店の楽しさだ。
コーヒー界の大トロ。自慢のデミタスで、コーヒーの奥深さを知る
『蔦珈琲店』のコーヒーには、デミタス 800円(税込)というものがある。デミタスというのはカップのサイズで、通常のコーヒーカップの約半分の50ccほどしか入らないのに、普通のコーヒーより100円高い。なぜなら、たったこれだけのコーヒーを入れるのに、通常の2倍量のコーヒー豆を使用して、本当に少しずつ時間をかけてドリップするからだ。マスターが「普通のコーヒーが赤身なら、デミタスは大トロかな」なんて言うので、どうしても飲んでみたくなった。
出てきたデミタスコーヒーのきわを見ると、大倉陶園の美しいカップの白に、くっきりと赤いリングが浮かんでいる。これこそが、美味しいコーヒーの証だとマスターは語る。
一口含めば、さっき飲んだ穏やかな飲み口のコーヒーとは全く別物だとわかる。不思議と苦みよりも強く感じるのは、どっしりとしたコクと香ばしさだ。舌にまとわりつくような旨味は、無糖のチョコレートやナッツのようで、ほのかな甘みも感じられる。同じ豆から抽出しているのに、こんなにも表情の違うコーヒーが生まれるなんて……。
ちなみに『蔦珈琲店』では、お店で使っているのと同じコーヒー豆を購入することもできる。今回のクロックムッシュのレシピもあっさりと教えてくれたマスター。それはこの店で、庭の緑や楽しげなおしゃべりに囲まれて、マスターの入れるコーヒーを飲むのが一番美味しいとわかっているからかもしれない。
『蔦珈琲店』店舗詳細
取材・文=岡村朱万里 撮影=加藤熊三