長い歴史と新宿らしい若々しさの同居する店
自慢じゃないが、僕は学がない(本当に自慢じゃないな)。だから、夜な夜な文化人たちが集う「文壇バー」とわれるようなお店には、「そんなことも知らないの?」と言われるのがこわくて入れたもんじゃない。
新宿に、あの黒澤明監督や三島由紀夫氏が愛した老舗酒場がある。なんて言われたら、敷居はマックスだ。けれども一方で、あこがれもする。そんな由緒正しき酒場のカウンターで、ひとりグラスを傾けてみたい気もする。
この連載のタイトルは「飛びこめ名酒場」。いい機会だ。文字通り、勇気を出して飛びこんでみることにしよう!
その店の名は『どん底』。ちょっと得体のしれない店名に、まずびびる。場所は新宿三丁目で、寄席の『末廣亭』から近い裏通り。
看板を読むと、どん底の創業は昭和21年(1951年)とある。数多くの文化人が、元祖酎ハイともいわれる「どん底カクテル(ドンカク)」を傾けながら時を過ごしたのだそう。
ちなみに店名の由来は、創業者である矢野智さんが、当時役者を目指しながら、生活のために店を始めようと、恩師に店名について相談したところ、「遊び半分で商売をやれるものではないから、俳優の仕事が続くかどうか心配だ。『どん底』の舞台が最後の舞台になるかもしれないから『どん底』にしたらどうだ。最低からの出発だからいい名前だと思うよ」とアドバイスを受けたところから。どん底とは、マクシム・ゴーリキーの戯曲で、矢野さんはその舞台に出演していたというわけ。
どん底の歴史や、数え切れないほどの文化人たちが寄せたコメントは、オフィシャルホームページに掲載されているので、興味があれば読んでみてほしい。
いざ店内へ……
さぁ、では勇気を出して店に飛びこんでみよう。今日は2階のカウンター席へ通していただいた。
さて、1杯目。ビール、ワイン、ウイスキー、日本酒、焼酎、カクテルなどなどメニューは膨大だが、何はともあれ「ドンカク」を飲んでみたい。グラスで650円。ボトルで3500円。大人数ならボトルが断然お得そうだが、かなり効く酒だとも聞いているので、ここはグラスで様子見か。
バックのボトルは撮影用にお借りしたもの。うっすらと黄金に輝く液体で満たされたグラスに、優雅に浮かぶレモン。歴史に磨き抜かれた神々しさを感じずにはいられない光景だ……。
ゆっくりと口に運び、ぐびりと飲んでみる。おぉ、確かにこれは効きそう。甲類焼酎をベースに秘密のレシピで配合したオリジナルエキスを加えたものだそうで、爽やかで、ほんのりと甘く、不思議に上品。これが新宿文化の味か!
「林さんのみ」。メニュー名だけ見るとなんのことかと思うが、『どん底』には、ハヤシライスならぬ「林さんのライス」なるメニューがある。ご想像通り、林さんという常連のリクエストから誕生したもので、牛肉とキャベツのウスターソース炒めをライスと合わせたもの。これはそのライス抜きというわけだ。シャキシャキのキャベツと牛肉の旨味がソース味でまとめられ、「高級な焼きそばの具」とでもいう味わい。これは酒が進むな。
そういえば、入るまではあんなに緊張していた店内の雰囲気だけど、これが驚くほどに気どってなくて過ごしやすい。
「僕がこの店で働き初めてから25年になります。若い頃に九州から東京に出てきたものの、サラリーマンとして働くのは自分には合っていないように感じていました。そこで、いちばん好きなことを仕事にしようと考えた。それが、お酒だった。ただお酒が好きというのではなくて、お酒があって、みんながワイワイ幸せそうに飲んでいる場所が好きだったんですよね。そういうところで働きたいなと思って探していたら、偶然の縁をいただき今にいたる、という感じです。」(店主)
「『どん底』の良さは、やっぱりお客さんとの距離が近いことですよね。スタッフは20人以上いて、営業中は常に15人くらいが働いています。若い子も多くて、常連さんも、気の合うスタッフと喋りたいからこの席で! というような感じで来てくれる方が多い。スタッフもお客さんも友達のようにワイワイやっている。まさに僕の好きな光景ですよね。
おかげさまで毎日忙しくさせてもらっています。この街のゴールデンタイムは少し遅くて、夜の8、9、10時くらいは特にバタバタしてしまって、ゆっくりお客さんとお話しできないこともあるので、初めて来るのなら、オープン直後の早めの時間が狙い目かもしれませんね」(店主)
『どん底』の迷宮は奥深かった
あらためて料理メニューを見ると、どれもこれも一工夫されていて、たまらなく酒に合いそうな品々が並んでいる。悩みに悩みつつ、さらに味わっていこう。
名前に偽りなしというか、厚切りにもほどがある!
断面からふわり魅惑の芳香を漂わせる豚肉を噛みしめる。柔らかいんだけど、適度な弾力も残っていて、豚の旨味が凝縮されている。相当の豚好きを自負している自分として、このチャーシューにはもう完全にやられてしまった。最高すぎる……。
自家製の生地がカリカリと香ばしく、たっぷりのチーズのジューシーな味わいが口に飽和する。思わず「今まで人生で食べたピザでいちばんうまい!」と叫んでしまうところだった。というか本気でそう思った。それがこのお手頃価格。こりゃあ文化人に限らずとも、愛して通ってしまうよなぁ……。
この絶品ピザにビールを合わせたい! と、あわてて注文。
1杯1杯大切に注いでいることが、飲み口から伝わってくるビールだ。
ところで、今日は2階におじゃましているが、店内は迷宮のように入り組んでいて全容が把握できない。一度訪れたくらいでは把握できないほど、『どん底』の迷宮は奥深いのだ。
店主からのメッセージ
「今の世の中って、さまざまな情報があふれている時代ですよね。グルメサイトを検索すれば、美味しいお店が人気順にずらりと並んでいる。だけど、あまりそういう情報にとらわれず、例えばうちみたいな店、中がどうなっているのかわからないようなお店に飛びこんでみる冒険心や好奇心というのは、若いうちから持ってみるとおもしろいし、人生経験の幅も広がると思いますよ。来る前に事前情報を仕入れるんじゃなくて、実際に足を運んで、お店の人と会話しながら、こういうお店もあるんだな、と学んでいくというか」(店主)
ご主人、『どん底』の皆さん、どうもありがとうございました!
取材・文・撮影=パリッコ