戦災をくぐり抜け、当時の空気を残す店

神田『みますや』を東京最古の居酒屋とする説がある。
創業は明治38年(1905年)。当連載第1回で紹介した『鍵屋』の歴史が安政3年(1856年)からなので、純粋な歴史としては鍵屋のほうが長くなるが、鍵屋は一度移転しているのに対し、『みますや』は創業当時からここで営業しているから、「同じ場所で」に限っていえば、こちらのほうが長くなる。まぁつまり「諸説ある」ということであって、どちらも文化遺産レベルの居酒屋であることは間違いない。

戦前のままの佇まいを残す『みますや』
戦前のままの佇まいを残す『みますや』

現在の『みますや』の建物は、大正12年(1923年)の関東大震災で一度消失し、その後建てられたもの。
神田須田町は、戦災を免れた、古き良き東京の雰囲気を残す建物が多く残る界隈で、『みますや』もご覧のとおり、味わい深い看板建築の佇まいが圧倒的。戦時中に店のファンたちが「みますやをなくしてなるものか!」とバケツリレーをして、焼失を阻止したというエピソードも残っており、当時の酒飲みの先輩がたに心から感謝したくなるばかりだ。

それではのれんをくぐり、店内へ
それではのれんをくぐり、店内へ
入り口を入ってすぐのメインホール
入り口を入ってすぐのメインホール
厨房の目の前の大テーブル
厨房の目の前の大テーブル

必ず入りたいならば予約は必須の人気店であり、開店前の行列もいつもの景色。それでも、平日のオープン直前くらいに店前に着いていれば、入れなかったということはない。なので僕は口開けにひとりで行くことが多く、するとたいてい厨房の前の大テーブルに通される。次々に仕上がっては客席に消えてゆく料理たちを眺め、その活気を肴にちびちびと飲むのは、すごく気分がいいものだ。

店内は広く、座敷席も完備
店内は広く、座敷席も完備
店内中央にある帳場の味わいがまたいい
店内中央にある帳場の味わいがまたいい

ここで生まれた3代目のご主人にお話を聞きつつ……

ではいよいよ料理を注文し、それをつまみに始めさせてもらおう。
大変ありがたいことに、そうして過ごさせてもらいつつ、現在3代目であるご主人に、お話も伺えることになった。

ご主人、岡田勝孝(かつたか)さん
ご主人、岡田勝孝(かつたか)さん
壁にはすべてご主人が直筆するという短冊メニューがずらり
壁にはすべてご主人が直筆するという短冊メニューがずらり

「うちの歴史は、元治元年(1864年)生まれの祖父の代からです。戦時中に、常連さんがバケツリレーをして店を守ってくれたなんて話があるでしょ? 僕はその年に、このちょっと先の病院で生まれた。それからずっとここで暮らしてる。子供の頃から手伝いはしてたけど、学校を卒業してから本格的にこの店を継いだんです。
このメニューの文字は、全部僕が書いてます。こんなヘタなのによくやるなぁって思うでしょ?(笑) だけど前、ある書道家のお客さんにね『もっと上手く書けと言われたらそりゃあオレなら書ける。だけど、この店の雰囲気に合うように書けと言われたら、とてもあんたにはかなわない』なんて言われたことがあって、これも味のひとつになってるのかな、なんて思ってやってます。文字が薄くなってるのはね、ずいぶん長い間書きかえていないっていう証拠でもある。こないだ消費税がまた上がったけど、お客さんの手前、よけいに書きかえられなくなっちゃった(笑)。まだしばらくはこのままがんばろうと思ってますよ」(ご主人)

テーブルにはメニュー表も用意されていて、こちらもご主人の手書き
テーブルにはメニュー表も用意されていて、こちらもご主人の手書き

『みますや』のメニューは幅広く膨大で、名物の品も数あれど、個人的に「牛煮込」は外せない(牛煮込をベースにそのダシがたっぷりと染みこんだ「肉豆腐」も捨てがたいけど、そこは気分で)。

それから、胃と懐に余裕があれば「さくらさしみ」も味わいたい。

旬の素材を使った日替わりの一品も多く、席に着くとまず店員さんがおすすめを教えてくれて、それもまた楽しみのひとつ。今日は「白子ぽん酢」と「たらこ煮付」がいいとのことで、お願いする。

ではでは、「瓶ビール」600円と一緒にスタート!

「牛煮込」600円
「牛煮込」600円

大鍋でグツグツと長時間煮込まれる、いわゆる牛鍋風の煮込み。
昔、牛肉は高級品で、庶民が気軽にすき焼きを食べるなんてことはできなかったそう。そこで、大鍋で煮ておけば、少しでも価格を抑えられ、お客さんも喜んでくれるだろう。そう考えた初代から続く伝統の一品。

牛の旨味たっぷりの甘辛味で、くたっと煮込まれた玉ねぎのアクセントも絶妙。そして何より、このボリューム! 『みますや』が大衆酒場として歩んできた歴史を体現するような1皿といえるだろう。

「さくらさしみ 赤身」1300円
「さくらさしみ 赤身」1300円
これがたまらない……
これがたまらない……

大きな平皿に美しく盛られた馬肉の赤身刺し。気取らずニンニクがたっぷりなのも嬉しい。

赤身ながらとろりと柔らかい、ひときれひときれが大ぶりの肉は、馬特有の濃厚な旨味であふれている。こんなに幸せな味が、見てのとおりこれまたたっぷりと堪能できるのが、本当にありがたすぎる。

「白子ぽん酢」900円
「白子ぽん酢」900円
「たらこ煮付」800円
「たらこ煮付」800円

鮮度抜群でとろりと甘い白子の妙味が、刺激の強すぎないまろやかなポン酢によって引き立てられる。

「たらこ煮付」も、これまた見た目に反して、優しく穏やかな味わい。タラコは既製品ではなく、生のものを店で煮付けるそうで、素材が良いからこその満足感がすさまじい。

こうなってくるともう、燗酒ということにならざるをえないでしょう……。

「白鷹」のはなし

潔さ際立つ燗酒メニュー
潔さ際立つ燗酒メニュー

「うちのメインで置いている酒は、ずっと灘の「白鷹」。どうしてこれを選んだかというとね、昔は灘から江戸までどんぶらどんぶらと、樽に入れた酒を船で運んでいたんです。樽が空けば持って帰って洗うでしょ。その樽を、白鷹だけは、水じゃなくて酒で洗っていた。これは「白鷹の樽ふり」っていって有名な話なんですよ。
それに、自分の蔵で作った酒だけに白鷹のレッテルを貼って世に出しているからまやかしがない。だから信頼してるんです。」(ご主人)

もちろんそんな話を聞いてしまったら飲まないわけにはいかない。やがて絶妙なお燗具合で到着した白鷹は、ふわりと柔らかいのにキリッとした芯も残っているような、実に粋な味わい。みますやの料理たちとも通じる存在感で、お互いを引き立てあう。

「白鷹」2合 800円
「白鷹」2合 800円
自分の顔が溶けている
自分の顔が溶けている

僕が何年か前、少し緊張しながら初めてみますやに入り、すぐに大好きになってしまった理由のひとつに『酎ハイ』の存在がある。それこそ、酒は冷やかお燗、あとはビールだけ、みたいなイメージを勝手に抱いていたので、メニューに見慣れたその文字列を発見し「こういうのもあるんだ!」と嬉しくなった。しかも1杯350円。激安を謳うそんじょそこらの店よりもリーズナブルなのだ。

「酎ハイ」350円
「酎ハイ」350円

そういうわけだから、あぁ、今日も本当に美味しいものを食べて飲んで、いい空間で疲れを癒すことができたな……とお会計をすると、毎回きっちり予想より安くてびっくりしてしまう。

創業明治38年の超老舗でありながら、みますやは昔も今も、僕たち庶民に寄り添ってくれる真の大衆酒場なのだ。

ご主人からのメッセージ

「うちの店にどうやって入ればいいか? そりゃ、こうやりゃ(手で扉を開けるしぐさ)いいだけですよ(笑)。
どっかの繁華街のぼったくり店みたいに、ビール1本飲んで10万円、なんてことはない。すべてが値段どおり。みなさん、ひたいに汗して1日働いて、その疲れを癒しにくるんだから、ポケットマネーで来られる店じゃないと意味がない。入ってきて品書き眺めて、高いと思ったら出てったっていいんですよ。

最近はお客さんも各種雑多。年寄りから若い人、女性のひとり客もいるし、中には赤ちゃん連れまでいる。老舗老舗って言われるけど、自分たちでそう思ってないからね。ただの飲み屋。それが事実ですよ。
ただひとつだけ言いたいのはね、飲んで酔うのは当たり前。だけど、酔ったからってバカ騒ぎはしないこと。ときどきいるんですよ。酔っぱらったら騒がなきゃいけないと思っていて、騒ぐためにお酒を飲むという人が。それはダメだね。気分良く過ごすために飲むのがいちばん。
常連さんはみんな、そういうことが良くわかっている人たちだから、酒飲みとしてのお手本になると思いますよ」(ご主人)

ご主人、みますやの皆さん、どうもありがとうございました!

取材・文・撮影=パリッコ

 

住所:千代田区神田司町2-15-2/営業時間:11:30~13:30LO、17:00~22:20LO(土は~21:20LO、昼営業無し)/定休日:日・祝/アクセス:地下鉄丸ノ内線淡路町駅から徒歩3分
大衆酒場とは、我々庶民が懐具合をあまり気にせず、気楽に酒を飲んで楽しめる店のことをいう。しかしながら、長い歴史のある酒場文化。創業から時を重ねれば重ねるほど、店に威厳や風格が出てしまうことは必然のことだろう。いわゆる老舗、名酒場と呼ばれる店に敷居の高さを感じ、その戸を開けることを躊躇してしまう酒飲みの方は、意外と多いのではないだろうか?ただ、考えてみてほしい。酒場の歴史が長く続いているということは、単純に、それだけ客が途切れずに店の存在を守り続けてきたということ。つまり、「いい店」であるということだ。そこでこの連載では、各地の名店と呼ばれる酒場を訪問し、大将や女将さんに、その店を、酒場を、楽しむコツを聞いていきたい。
長い歴史のある酒場文化。創業から時を重ねれば重ねるほど、店に威厳や風格が出てしまうことは必然のこと。いわゆる老舗、名酒場と呼ばれる店に敷居の高さを感じ、躊躇してしまう方は、意外と多いのではないだろうか?そこで、各地の名店と呼ばれる酒場を訪問し、大将や女将さんに、その店や酒場を楽しむコツを聞いていくこの連載。第3回は『どん底』にお邪魔した。興味はあるけど、今一歩勇気が出ない……。そんな酒場初心者や若者世代に送ります。
この店を知るまで、僕はあまり渋谷が好きではなかった。飲める年齢になってからずーっと酒好きで、居心地のいい飲み屋がある街こそが自分の居場所のように感じていた。だから、常に若者文化の最先端であるような、そしてそれを求めてアッパーなティーンたちが集まってくるようなイメージの渋谷という街に、自分の居場所はないと思いこんでいた。