店の前は絹の道だった
『ローゼンボア』に入ると、多種多様なパンが迎えてくれる。昔ながらのアンパンからサンド類、クロワッサンやハード系まで、あらゆる人が満足できるラインナップになっている。
お客さんは若者から家族連れ、シニア層までさまざま。パンのラインナップはそれに合わせたものだろう。店は通り沿いにあってドライバーにもよく目立ち、近くには住宅やマンションも多い。ベーカリーにとっては、なかなかの好立地なのだ。
店が現在の場所に移ったのは戦後。昭和12年に初代の高崎隆光さんが始めた店は、ひとつ先の駅の町、反町にあったという。当時の反町には遊郭があり、繁華街としてにぎわっていた。店名は「ナポレオンベーカリー」。なんとも繁華街の店らしい雰囲気がある。
しかし、反町の店は横浜大空襲で焼失。戦後、店名を「高崎製パン」とし、現在の場所で再開した。今でこそ店の前の通りはマンションが建ち並んでいるが、もともと旧道で八王子から横浜まで絹糸を運んでいた「絹の道」。絹が運ばれることがなくなっても、海に向かえば横浜市中央卸売市場ががあり、往来も多かった。今と違って、にぎやかな商店街が形成されていたという。
その後、店は隆光さんの息子、征二さん、そして健人さんと継がれ、現在に至る。店名を「高崎製パン」から『ローゼンボア』に変えたのは、1970年代の半ば。征二さんがデンマークに旅行に行った際、そこで見たローゼンボア城に感動し、店名にしたのだという。
じょじょに変えていった店とパン
三代目の健人さんはもともと店を継ぐ気はなく、大学卒業後はサラリーマンになったが、征二さんの病気もあり、三代目となることを決意。専門学校でパン作りを学んだ後、鶴見のベーカリー『エスプラン』で修業して、28歳のときに店に入った。サラリーマンとして人の下で働くよりも、自分の手で商売をするやりがいに魅力を感じたことも、店を継いだ理由だった。
健人さんが入ってから、パンをじょじょに変えていった。定番のラインナップは残しながらも、発酵種にルヴァン種を使うようになり、クリームパンのカスタードクリームも自家製に。国産小麦も使うようになり、ハード系のラインナップも増えていった。かかる手間は、以前より格段に増えてしまうのだが……。
なによりお客様のため
「自分で食べたいと思うパン。あとはお客様がいろいろ選べるように。お客様が喜ぶ顔を見るのがうれしいんですよ」(健人さん)
なにより、お客様ファースト。だから手間はそれほど気にならないという。
店舗も2002年に改装。通路は広めにし、売り場から作業場の様子をガラス越しに見えるようにした。作っているライブ感を出せれば、というのにプラス、お客様の様子を作業場から見たいという考えがあってのことだ。
自分が作ったパンをお客様が楽しそうに選んでいる姿は、作る側にとって、なによりうれしいことだろう。まさに健人さんの願いである「お客様の喜び」が、実際に自分の目で確認できるのだ。買う側も、作っている様子が分かるのは、とても安心できる。『ローゼンボア』の売り場は、双方にとって、うれしい作りになっているのだ。
健人さんは『ローゼンボア』を「人が集まってくるような店にしたい」という。「お客様が喜ぶ顔が見たい」という思いがあれば、これからも『ローゼンボア』にお客様が途切れることはないだろう。
取材・撮影・文=本橋隆司