ポツンとな店で攻めたそば
北大宮に『波音』ができたと知ったのは、2022年の9月のこと。知人で大衆そば研究家である坂崎仁紀氏の記事によってだった。記事によればなかなかいいそばのようだし、立地も変わっているしで興味を持ったのだけれど、自宅から遠いこともあってなかなか行けないでいた。
そのうち『波音』がかき揚げなどのスタンダードなタネ以外に、はまぐりそばなどの攻めたメニューを、期間限定で出し始めた。12月になると、立派な根を持つせりがドンと乗ったせりそばが登場。これは行かねばと、重い腰をあげて北大宮へ向かった。
せりそばは素晴らしかった。ジャクジャクと歯切れよく風味豊かなせりはほんのり甘みもあり、野性味たっぷり。特に根の濃厚さは格別。甘じょっぱいツユに浸して口に運べば、噛むたびに大地の豊穣さを感じられた。
正直、立ち食いそば店で、ここまで立派なせりがいただけるとは思わなかった。しかも、北大宮という場所で。なんだかいろいろと気になったので、さっそく取材を申し込んだ。
『波音』の店主である細田直也さんは、現在49歳。16歳の頃から建築関係の仕事をしていた。24歳のときに会社を作り、ビルやマンションなどのガラスまわりの仕事を請けていたが、いつしか飲食店をやってみたいと思うように。
その頃、仕事のことで悩むようになる。長年、同じ仕事をし続け、やりきってしまった感じ。さらに取引先との関係なども。そんな折に北大宮の物件が見つかり、立ち食いそばならば飲食未経験でもできるのではと、開業を決意。長年続けた建築の仕事はやめ、『波音』を始めることにした。
人生の第2章の始まり
そば作りはすべて独学。そばはゆで麺使用だから問題ないとして、ツユの作り方などは麺を納入している富士製麺からアドバイスをもらい、学んだという。天ぷらも開店前に猛練習を重ね、22年9月7日に、無事、オープンすることになった。人生の第二章の始まりだった。
独学とはいえ、『波音』のそばはなかなか達者だ。旨みのしっかり詰まった濃いめのツユに、ふわっとした食感のゆで麺そばが、立ち食いそばらしくて嬉しくなる。そしてなにより天ぷらがいい。
かき揚げはさっくり揚がり、ツユ馴染みがいい。玉ねぎ、にんじん、いんげんの風味もよく、野菜のおいしさをしっかり感じられる。聞けば、野菜は趣味のサーフィンのためよく訪れる、茨城県の物産店で仕入れるそうだ。実はまじめに、そばを作っているのだ。
そばのおいしさは十分。なのだが、ちょっと気になるのが客入りだ。大宮駅からひと駅とはいえ、北大宮は大宮の駅まわりとは、雰囲気がだいぶ違う。
奮闘する日々
大宮駅の北口から歩くとはっきり分かるのだが(徒歩で17分ほど)、北大宮駅の近く、裏参道通りまで来ると、それまで多かったオフィスや店舗がパタッとなくなる。駅近くには大宮税務署があるが、それ以外には古くからありそうな大きな家が並ぶ。およそ立ち食いそばとはあまり縁のなさそうな、お屋敷町なのである。
実際、オープン当初は順調だったものの、その後はなかなか厳しい状況が続いているようだ。週3営業となったのも、売上を補うため、一度はやめた建築の仕事をしているのだという。はまぐりそば、せりそばなど、思い切ったメニューを出したのも、試行錯誤の結果、起爆剤になればとのことだった。
取材のために訪れたとき、せりそばは終わっていた。せりを栽培している秋田の農家が、大雪のためハウスが潰れてしまい、出荷が止まっているのだという。代わりにいただいたのが、やまなめこそば760円だ。
大きく軸のしっかりしたなめこが、どっさり乗っている。強烈な香りが濃いめのツユに乗っかり、官能的なおいしさになる。最近はSNSを見て、遠くから足を運んでくれるお客さんが増えてきたそうだ。地元に根付くことも大事だが、攻めたメニューで広くアピールするというのも、効果的なやり方だろう。
じょじょにかもしれないが、おいしいものは確実に伝わる。オープンしてまだ4か月あまりの『波音』はまだまだこれから。細田さんの人生第2章は、始まったばかりなのだから。
取材・撮影・文=本橋隆司