数え方に日本のことばと外来語が混在
小野先生 : 「ひとり」は奈良時代からあることばで、日本古来の「和語」です。
言うまでもなく、単数の人を指します。注目してほしいのは、日本語の人数の数え方です。
ひとり、ふたり、さんにん、よにん、ごにん、ろくにん、しちにん、はちにん、きゅうにん、じゅうにん……
筆者 : ひとりとふたりだけ、「にん(人)」を使っていないですね。
小野先生 : 「にん」も「さん」「よん」「ご」……といった数字も、中国から来たことばの「漢語」なんです。
ぜんぶ、和語で読むと、
ひとり、ふたり、みたり、よたり、いつたり、むたり、ななたり、やたり、ここのたり、とたり……
となります。
筆者 : みたり、よたり、と言われても、現代の私たちにはわかりません。同じ日本語なのに、固有のことばと外来語が混ざっているのはなぜでしょうか?
小野先生 : 「いち」「に」「さん」と漢語の数字が定着して、そちらで数えるほうが、わかりやすく便利だったのと、10以上の数字が数えやすかったからでしょう。一部に和語が残ったのは、「ひとり」「ふたり」が日本人にとってある種の精神性を持った、特別な状態だからです。
万葉集で有名な歌人の柿本人麻呂は、恋を「ひとり悲しむもの」という意味も含めて、万葉仮名で「孤悲」と書きました。今でも「独り」という字をあてると、単なる数字ではなく、孤独、寂しい、つまらない、といった精神的なニュアンスが生じるでしょう。
筆者 : 複数人いなければ成立しない恋を、ひとりで悲しむとは、哲学的ですねえ。でも、恋する人と会えないときにあれこれ考えて思い詰めるほうが恋の本質だ、というのは理解できる感覚です。
小野先生 : 「ふたり」も「ひとり」を抜け出した特別な状態。はじめて、人と人のつながりがうまれます。
「ひとり」→「ふたり」はすごくポジティブなことだけれど、それ以上は3人、4人と数が増えても、精神的な深さという点からは重要ではなかったのでしょう。
社会、経済とともに「ひとり」のイメージも変わった
筆者 : 「ひとり」はネガティブなニュアンスが強かったようですが、最近は随分変わっていますよね。
小野先生 : 例えば、少し前まで「独身」は時にからかわれる対象でしたね。「そんなことじゃ、結婚できないぞ」といったやりとりが、深い考えもなしに交わされていました。今じゃ、そんなことを言ったら、ハラスメントですよね。
筆者 : そうですよね。今では「独身」は生き方のひとつと、認められています。
小野先生 : 昔は、助け合わなければ生きていけなかったので、「ひとり」は望ましい状態ではなかったのでしょう。
社会が安定して、経済的に豊かになり、「ひとり」で生きていけるようになってはじめて、自由や気楽さといった側面に光があたったと考えられます。
筆者 : 「ひとり」を積極的に楽しもうとする「おひとり様」の表現、カルチャーは、まさに社会の姿を反映しているように思います。
小野先生 : さらに、スマホとネットが普及した今は、「ひとり」であることの意味が変わっています。「ひとり」で出かけても、メールやSNSでいつでも誰かとつながれる状態。常に誰かを意識して、例えば「映える」料理や風景を探しているわけです。
現代では、本当の意味での「ひとり旅」「ひとり散歩」を味わうのは、案外難しいことなのかもしれませんね。
まとめ
日本語の人数の数え方には、「ひとり」「ふたり」といった日本古来の和語と、「さんにん」以上の中国から来た漢語が混在する。これは、日本人にとって「ひとり」が単なる数字ではなく、精神性を含む特別な概念だったから。ひとりで生きていくことが難しい社会では、「ひとり」から「ふたり」になることが、今の感覚よりずっとポジティブな変化だったのだ。
社会が安定すると、「ひとり」の気ままさが強調され、必ずしもネガティブな状態ではなくなった。しかし昨今では、SNSやメールで常に誰かとつながっている状態が続き、本当の「ひとり旅」「ひとり散歩」が難しくなっている。
取材・文=小越建典(ソルバ!)