「へっ。おめえくれえだよ、こんな話聞いて喜ぶのはよ」

といつもお爺さんは私の顔をみると言い、でもうれしそうに笑っていました。まだ集落に子供が多い時代でしたが、実際に私ばかりが熱心にお爺さんの話を聞きにいっていたのです。内容は、昔話。それも戦争の話でした。お爺さんは戦時中、海軍にいました。残念なのは、当時なんの話を聞いたか、私はもうほとんど覚えていないのです……。

覚えているのは、軍艦と日章旗のモチーフの表紙がついたアルバムを一緒にめくったこと、中の写真に写る若いころのお爺さんは水兵服を着て、「横須賀海兵団」と書いた帽子をかぶっていたこと、大砲が突き出た軍艦の写真が何枚も載っていたこと、軍艦の上で、体操(?)をしているお爺さんや他の水兵さんたちの写真があったこと、ただただ、カッコいい! と感じたこと、昭和後期にはダンプの運転手をしていて、家にいるときは酒に酔って鼻をいつも赤くした、豪快な感じのお爺さんと、水兵のイメージが結びつかず、不思議な感じがしたこと。

私は小学校三年生か四年生くらいでしたから、ほとんど意義のある質問もできなかったこともあるかもしれません。戦争でどのような思いをしたのか、まったく聞けませんでした。小さい私には話すことはないとお爺さんが判断したこともあったかもしれません。

昭和のある日、現実に起きたことに立ち合えたような感覚

一緒にページを繰っていったアルバムの、表紙の古めかしいデザイン、黄ばんだ古い紙、印画紙の匂い。こうしたものも記憶に残りました。これだけの話です。以後何十年もすっかり忘れていましたが、最近、思い出すんですね。

なぜなら、今やっている仕事は、なかなか似た部分があるな、と思うからです。

「お爺さんに昭和の昔話を聞く」。

これは近年、年中やっています。そして、そのころと変わらないな、と改めて思うのは、「著名人のお話はあまり聞かない」ことです。やっぱり、街でふつうに暮らしている人の話を、より重視してしまいがちです。

有名な方々は、日頃たくさんの人からあれこれ聞かれる立場なので、ご自分の昔話を語るにしても話が上手いんですね。上手すぎる! 上手いということは、起承転結がしっかりしていて、オチも用意されている、ということで、メディアに載せるのならば、都合がいいことです。タイトな取材時間のなかで、しっかりまとまるように話をしてくれます。

一方、市井の人々というのは、話が前に進んだかと思えばまた戻ってしまったり、話の顛末を聞くまでに時間がかかることがあります。オチもなく、話が唐突に終わることもあります。長時間、何回にも渡って話を聞いていると、「あれ前回聞いたことと繋がらないな」と矛盾にこちらが気付く事態さえ起こります。そして、その事象が「いいことか悪いことか、パッと判断がつかない」、そういう場面にぶち当たることがあります。

でも、これが、大事なのだと思うのです。

いまだ意味付けされる前の、なまの現実、という感じ。現実とは本当は、矛盾の中にないでしょうか。一貫性があって、角のとれて整理された話とは全く違うもの。

過去に起きたことが、言葉に置き換えられるのは、今がはじめて、あるいは、ごく久しぶり、という瞬間に立ち合っている感じがします。この新鮮な言葉に触れていると、その向こうに、昭和のある日、現実に起きたことに立ち会えたような感覚になってしまうのです。

「昭和ノンフィクション」を書くときの手法、というと大げさですが、結構こんな感覚を私は大事にしています。こんな話を書いてしまったので、流れのままにもう一つ、聞き書きするとき大切にしている方法を言わせてください。それは、「事件だけを追わない」という点です。これ、実は、すごく難しいです。

メディアの片隅で、地味な昭和の昔話を書く

人や過去を取り上げて何か書くのなら、平和で順風満帆で恵まれた人をそのまま書いても、誰も見向きしてくれません。やっぱり耳目を引く、過激さ、不幸、グロテスクさ、そういったイメージを尖らせて最初に提示しないと、まず読み始めてもらえません。人はそういう人の負を、覗き見したくなる下世話さを持っています。もちろん私にも多分にあるでしょう。

これは、メディアというものが構造的に持っている悲しい宿命です。あまたあるトピックから読者や視聴者は、尖っているものを選択しやすく、限られた時間を「楽しもう」とします。

だから、「事件」の尖りを、よりスパスパに切れるくらいに尖らせて、制作側は勝負しよう、目立とうとしがちなのです。

歴史的にも、硬派なドキュメンタリーの顔をして作品を提示しているけれど、その実、単に不幸な人をより不幸に演出して、それを覗き見させ、うわぁ大変だなぁ、ああ自分はそうではない、と安全圏から安心しながら、コンテンツとして受け取れるように作ってあるものも多々見受けられました。いやな言葉ですが、「人の不幸は蜜の味」、ということです。他人であれば、痛みは自分に伝わってきません。

まずは、この人間の酷薄な本性を認めるところから出発しなければならないと思っています。

「楽しもう」とする受け手の感情を踏まえながらそれでも、「知ったほうがいいことだけれど『楽しくはない』」という事象をちゃんと描けるか否か、これが大事ではないでしょうか。

だから、人や過去を追っているときぶちあたった「事件」が派手であればあるほど、ときどき、あえてそこに紙幅を割かないことがありますす。……っていうものの、う〜ん、むずかしい。ちゃんとできていないこと、多々です。

そしてときどき指摘されます。事件だけ書かない、あれもこれも書かない、そんなことやってたらできるものは地味で堅苦しくて、目新しさもなく、「売れないだろう?」って。いいご指摘ですね。

図星ですよ。でもメディアの片隅に、そういう地味な昭和の昔話を書く人間が少しくらいいてはだめでしょうか。すくなくとも、読者の貴重なお時間をいただくときに、ご一緒に考えていただけることは書きたい、そう思って机に向かっています。

文=フリート横田
※画像はイメージです。

この連載の名前は「街の昭和を旅する」。ふだんは、私が昭和の街を歩いたり、見聞きしたことをぼつぼつと記しております。ですが今日は突然ですが、別の方の話をさせてください。SNSを使って、昭和レトロな発信をし、人気を博している方について、ちょっとふれたいのです。 ※写真はイメージです。
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