本と酒、その両方を叶えた古本屋酒場

JR高円寺北口は、駅前のロータリーを起点にした幾本もの道が180度の方向に延びている。駅を出て左、その幾本の道の中から線路沿いの「中通り商店街」と名付けられた幅4mほどの道を進んでいく。左右には飲食店や古着屋などの個性的なお店が並び、道の狭さのおかげで独特の密集した活気を感じさせてくれる。

左右のお店に目をやりながらゆっくり歩くと、そこに一段と個性的な古書店酒場『コクテイル書房』のお店が現れる。

一見何屋さんか分からない、不思議な佇まい。
一見何屋さんか分からない、不思議な佇まい。

大正から昭和初期のころに建てられた木造の建物は、それだけでとても目を引くのだが、とても落ち着いていて、ガラスの向こうに見えるやや薄暗い店内からは人を自然に受け入れるような優しさも伝わってくる。

カウンターの前にも本が並べられ、飲みながら読むことができる。
カウンターの前にも本が並べられ、飲みながら読むことができる。

古本屋でありながら酒場でもあるとてもユニークなお店。一歩店内に足を踏み入れると、本棚はもちろん、鴨居の上などにも棚が設置され、カウンターの目の前にもぎっしりと文庫本が並べられている。本の間には古い柱時計や火鉢、福助人形などもあって、たぶんその時代を知らない人であっても不思議な懐かしさを感じてしまうことだろう。

振り返ると、お店の扉の上にも本棚。当然ここにも天井近くまでびっしりと本が並べられている。
振り返ると、お店の扉の上にも本棚。当然ここにも天井近くまでびっしりと本が並べられている。

古本屋酒場は自然の流れで生まれた

古書店『コクテイル書房』は1997年に東京の西の学園都市、国立で開店した。もともと書店に勤められていたご主人、狩野俊さんにとっては自然の流れであったという。それが本好き、酒好きにはたまらないユニークな古書店酒場となったのもまた自然の成り行きであったという。

「僕が店で1人でお酒を飲んでいるところに学生がやってきて、一緒に飲む? という感じで飲むようになったのが始まりでした。来てくれる人から、『それならお金をとったら?』と言ってもらって、自然に始まったものです」と狩野さん。

ご主人、狩野俊さん。
ご主人、狩野俊さん。

高円寺に移転したのもまた自然な流れであったとのこと。「もともと僕は高円寺に住んでいて、お店のある国立に通っていたのですが、それもしんどいので近くにお店を移転しました」と狩野さん。

現在のお店は高円寺で3か所目。契約の関係で場所を探していたところ、偶然に見つかったのがこの場所。まるで古本がやってくるのを待っていたかのような、古く、落ち着いた空間であったとのこと。よくぞこの場所に出合ったことだなー、とそのあまりの相性の良さに改めて感激してしまう。

小説から美術、カルチャーまで多彩なジャンルがそろっている。
小説から美術、カルチャーまで多彩なジャンルがそろっている。

お店に置いてある本はすべて購入が可能。本のラインナップは文学を始め、哲学やカルチャーまで幅広い。もちろん目の前の本を読みながら飲むこともできる。飲みながら読んだ読みかけの本となれば、それは買っていくだろうな、とその購入の情景まで浮かぶ。

本棚のある自分の部屋で酒を飲みながら読書。こんな幸せな時間をお店で味わえる。しかも頼めばおいしい料理が出てくる。まさに本好きにとってこれ以上ないような幸せな空間だ。

現在改装中の2階。ネコの声がすれど、姿は見えず。
現在改装中の2階。ネコの声がすれど、姿は見えず。

文学にまつわる創作「文士料理」

お店では文学にちなんだ「文士料理」も用意されている。今回注文したのは文学カレー「漱石」、青い山脈ポテサラ、そして中原中也サワー。

中原中也サワー650円、文学カレー「漱石」500円、青い山脈ポテサラ650円。
中原中也サワー650円、文学カレー「漱石」500円、青い山脈ポテサラ650円。

文学カレー「漱石」は漱石の大好物だった牛肉がたっぷり入ったカレー。胃痛と神経衰弱に苦しんだ漱石の心と身体に寄り添うように、スパイスを選び配合し、野菜は細かく刻まれカルーに溶け込ませている。隠し味に漱石の好物だったいちごジャムや留学先のイギリス産の黒ビールも加えられているという。

文学カレー「漱石」。肉は漱石が好物であった牛肉。
文学カレー「漱石」。肉は漱石が好物であった牛肉。

青い山脈ポテサラは石坂洋次郎の小説「青い山脈」をイメージし、ハムやベーコンなどは入れず、みょうがや三つ葉で味や香りを出し爽やかな味に仕立てた一品。ポテト本来のおいしさが伝わってくる。

青い山脈ポテサラ。爽やかな味でジャガイモ本来の味が楽しめる。
青い山脈ポテサラ。爽やかな味でジャガイモ本来の味が楽しめる。

そして中原中也サワー。中原中也は文学史上に大きな足跡を残した近代詩人で、恋にまつわる多くの名作も残している。失恋をテーマにしたカクテルで甘酸っぱく、ほろ苦い味。

失恋の味など忘れてしまったけれど、確かにこんな味だったかも。
失恋の味など忘れてしまったけれど、確かにこんな味だったかも。

「やはり本好きの方が多くお見えになるので本の話はよくします。ただ私が話すというより、本に詳しいお客さんからいろいろ私が教えてもらうことが多いですね。もちろんお客さん同士が本の話で盛り上がることも多いです。本がたくさんあるおかげなのか、みなさん静かに飲まれることが多いですね。もちろん私的には楽しく騒いでいただいても全然かまいません」と狩野さん。

本のある所では騒がない。言われてみればそんな思いがみんなの中にある。本はそんな不思議な存在でもある。

2階に行く階段から。本に囲まれた小上がり。
2階に行く階段から。本に囲まれた小上がり。

最後に酒場と古本屋の両立について狩野さんに伺ってみた。「飲み屋と本屋は全然違うと思われているのですが、実はすごく似ていると思います。どちらも言葉をいただける職業なんです。気づいたり勉強になったりというのはお飲み屋も本も同じだと思います」。

女性が1人で来店することも多いとのこと。お店の雰囲気、狩野さんの朴訥で柔和な佇まいが女性も落ち着いて過ごせる空間を作り出しているのだろう。「田舎に帰りたいけどなかなか帰れない。どっかに帰りたいなと思ったときに来てほしいですね」と狩野さん。2階から聞こえるネコの鳴き声さえ、なぜか古い時代を思わせるような不思議な空間だった。

住所:東京都杉並区高円寺北3-8-13/営業時間:18:00~21:00/定休日:火/アクセス:JR中央本線高円寺駅から5分

構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=夏井誠