約500社の設立・育成に関わった“近代日本経済の父”、渋沢栄一
1840年(天保11)、渋沢栄一は父・市郎右衛門の子として武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)に生まれた。聡明な子で、7歳の頃からいとこの尾高惇忠に指導を受けて中国の古典『論語』をはじめ多くの本に親しんだと伝わる。
深谷市と群馬県を隔てる利根川流域は藍の栽培がさかんで、渋沢家も市郎右衛門の代に染料のもとになる「藍玉」の製造・販売で財を成す。栄一も父とともに村々の農家をまわり藍の葉を買い付けた。
商いの頭角を現し始めたのは14歳の頃。一人で買い付けに出かけた栄一は、「この葉は肥料が足りていない」「葉の乾燥が不十分だ」と鑑識眼を発揮し、大人たちを驚かせた。22歳のときには武州自慢鑑藍玉力競(ぶしゅうじまんかがみあいだまちからくらべ)なる番付を作成。買い付けた藍の葉を「大関」「関脇」「前頭」……と格付けして、藍農家の品質向上を促進。地域産業の底上げを図った。
その後、尊王攘夷思想に傾倒した栄一は、惇忠らと高崎城の乗っ取りや横浜の外国人商館の焼き討ちを企てる。しかし、京で見聞を広めた惇忠の弟の長七郎がこれに反対し、計画は中止される。この一件で栄一は23年間暮らした故郷を離れ、京へ出奔。その後、のちの徳川第15代将軍・慶喜に仕えることになる。
渋沢栄一記念館(高崎線 深谷駅)
貴重な資料の数々は必見
栄一の出生地近くに立つ記念館。遺墨や写真などを展示するほか、若かりし頃に残した「武州自慢鑑藍玉力競」も並ぶ。目玉は、生前の姿と肉声を再現した渋沢栄一アンドロイドによる講義「道徳経済合一説」。現代にも通じるビジネス論だ。
渋沢栄一記念館詳細情報
大文献集『群書類従』を完成させた盲目の国学者、塙保己一
江戸時代の中頃、武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町)の百姓の家に生まれた塙保己一は、肝の病から7歳で失明してしまう。しかし、持ち前の志の高さからハンディキャップに屈することなく、手の平に指で字を書いてもらい文字を習得する。
15歳になると自立するために単身江戸に出て、盲目の人々の組織である当道座(とうどうざ)に入門。やがて、歌学者・萩原宗固(はぎわらそうこ)や国学者・賀茂真淵(かものまぶち)に弟子入りして、学問の道を突き進む。
1779年(安永8)、34歳になった保己一は「世のため、後のため」との思いから、古代から江戸時代までの貴重な書物をまとめた『群書類従』の編さんを決意する。自ら各地に赴き資料を集め、弟子が写本。41年間の歳月をかけて完成させた530巻666冊の文献集は、今も国史学・国文学研究の根幹を支えている。
塙保己一記念館(八高線 児玉駅)
『群書類従』制作の過程を追う
保己一の誕生から『群書類従』完成までの道のりを解説パネルと貴重な資料で紹介する。保己一が保木野村を旅立つ時に背負っていた「お宝箱」や生涯大切にしていた母手製の巾着など、人となりを伺わせる展示も。
塙保己一記念館詳細情報
15年越しの願いを叶えた日本で最初の女性医師、荻野吟子
荻野吟子は武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬地域)に生まれ、才女として知られていた。18歳で地元名士と結婚するも、不慮の病を患って離婚を余儀なくされる。この時、男性医師による婦人科治療を受けた辛い経験が、吟子に医師への道を決意させる。
上京した吟子は、医術を学ぶために私立医学校・好寿院に入学。好成績で卒業したものの、当時女性は医術開業試験を受けることすら許されていなかった。そこで吟子は、制度改正に奔走。紆余曲折を経て、内務省衛生局長に嘆願し、とうとう女性の受験が認められる。
そして1885年(明治18)、吟子は医術開業試験に見事合格。日本初となる“女性医師”が誕生した。吟子34歳。医師を志してからすでに15年が経っていた。その後、63歳の生涯を終えるまで医療に力を尽くした。
荻野吟子記念館(高崎線 熊谷駅)
ドラマチックな吟子の生涯を紹介
吟子の生涯を追った年表や写真、書簡などのほか、吟子を主役にした映画のロケ地マップや舞台の小道具を展示する。施設の隣には市指定文化財史跡「荻野吟子生誕之地」が。近くには渡し船の赤岩渡船の乗り場も。
荻野吟子記念館詳細情報
名所・史跡を探訪するその②に続きます!
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取材・文=名嘉山直哉 撮影=河野豊 イラスト=さとうみゆき