一時はテレビ番組でも人気。屋台から始まって通算50年
『支那そば 勝丸』があるのは、目黒駅から徒歩8分ほどのところ。目黒川を渡って少し先だ。赤い看板に力強い文字で“勝丸”と書かれている。まず見逃すことはないだろう。
店主の後藤勝彦さんは、青森県の出身。パン屋で働いた後、東京でタクシー運転手になった。
「当時はまだ情報がないから。店の周りにタクシーが並んで止まっているラーメン屋さんがおいしいところだったんですよ。タクシーの営業しながらいろんなうまい店を食べ歩いて、いいところも悪いところも吸収して、自分の味を作ってきました」
インターネットどころか、グルメ情報誌もそれほど充実していなかった頃の話だ。後藤さんにとって、あちこちのラーメンを食べ歩くこともタクシーの仕事を選んだ目的の1つだったのだ。
そして1972年。六本木を中心に小さなトラックで屋台を始めると、口コミが広がり、なかなかの人気店になった。その後白金に店を出したのは、屋台に来ていたお客さんの1人から、いつまでも外でやっていないで、店を持ちなさいと進言されたことがきっかけだ。するとその店も行列のできる繁盛店に。のちに白金から目黒の今の場所に移転した。
「私も味にこだわってやっていたけれど、お客さんの力があったからこそ、店が有名になりました。それで、マスコミから声がかかるようになったんですよ」
後藤さんがテレビ出演すると、さらに店は繁盛。ラーメンブームも手伝って、『新横浜ラーメン博物館』に出店するなど支店も増え、一時は全部で9店舗までになった。
「支店を合わせるといちばん多い時は、1日でラーメン4200杯作ってましたね。今じゃ考えられないけどよくやってたね。製麺所にも苦労をかけました」と振り返る。
今も変わらないラーメンへの情熱で作る醤油ラーメン
現在は目黒の店だけとなったが、ラーメンへの情熱とこだわりは変わらない。
「今は豚骨ラーメンが人気みたいだけど、私は醤油ラーメンへのポリシーと使命感があるんですよ」と力強い。
スープは豚の骨を2種類、そして鶏ガラをたっぷり使っている。そして昆布や煮干しも加えて、9時間ほどかけてとっている。
「やっぱりスープが財産。お金になるものだから、おいしくなるように『今日も一日いいの頼むよ』って心から思いながら作っている。そうすると、いいスープになるんですよ」
麺は縮れ麺。なかなか見ないレベルの縮れ具合だが、特殊な刃を使っているとのこと。卵は卵白だけを使用して、白く、かつ歯応えのある麺に仕上がっている。
具はシンプルにが『支那そば 勝丸』らしさ。「もやしとか卵とか入れると豪華に見えるけど、うちはメンマとチャーシュー、それからネギが基本」といいつつ、「ほうれん草が入るから写真向きだよね」と屋台ラーメンを勧めてくれた。
スープは、香り高くスッキリした醤油味の中に、煮干し由来の微かなえぐみが加わっている。濃度のほとんどないスープにぎゅっと噛みごたえのある太めの縮れ麺がよく絡む。確かに子供のころ食べたような懐かしい味わい。シンプルなのに、複雑さのある味わいにほっとする。
「チャーシューは鹿児島産を中心に国産の生の豚肉を使っています。チャーシューと呼んでいるけど、煮豚だよね。でもこの肉汁がないといいスープにならないの」と豚にもこだわりを見せる。「この道50年だけど、常にもっともっとおいしくできるように、頂上を目指していますね。今は7合目あたりかな」と、まだまだラーメンへの意欲は衰える気配はない。
店内には、ヴィンテージのラジオやステレオ、レコードプレーヤーなどの音響機器、昭和レトロなグッズがたくさん並んでいる。「古いやつはね、いい音するんですよ」と後藤さん。ラーメンとともに懐かしい雰囲気や音楽もお客さんに味わってほしいそうだ。
実は後藤さんは音楽の愛好家で、今でもお客さん相手にギターをかき鳴らすこともあるとのこと。
50年のラーメン人生は、決して平坦ではなかった。屋台で営業していたころ電気や水を貸してくれた社長との出会いなど、人に助けられたこともあったが、逆に困っている人に手を差し伸べたら、返って痛い思いをしたこともある。そんなことも「人柄、鶏ガラ、豚ガラね」と懐かしむ余裕を見せる後藤さん。懐かしいラーメンの味には、そんな深みが備わっているようだ。
取材・撮影・文=野崎さおり