東京最高の味噌ラーメンを求めて
「味噌麺処 花道庵」
もちろんラーメン好きとして今まで店の名前は知っていたものの、結局行かずじまいだった理由はただひとつ。
野方という土地が圧倒的に未知すぎたのだ。
「いつか野方に行くことがあったら絶対行こう」そう思っていたのだが、ある日おれは気づいてしまった。野方に行く理由など今後生きていてあるはずがないと。
そしてそれに気づいた日、ちょうどおれの口は朝から「味噌の口」となっていた。
夜になっても、その「味噌の口」はいっこうにおさまる気配を見せなかった。
醤油でも塩でも濃厚魚介でも無理だ、この渇きは味噌スープでしか癒せない。
「野方へ行く理由なんて必要ない。花道庵へ行くこと、これすなわち野方へ行く理由なり」
おれは謎の悟りを開きつつ、味噌ラーメンを求めプルプルしながら靴を履いて外へ飛び出した。
我が家から野方駅まで電車で行くとなると、大回りに大回りを重ねてなんと1時間半以上かかることが発覚した。
しかし地図上で直線距離を見ると、そんなにかかるとは思えない。我が家近くの環七から一直線に野方駅までの道が続いている。
「環七を歩こう」とおれは決意を固め歩きだした。
環七はかろうじて歩道はあるものの「趣味としての散歩」で使うような風流な道ではない。
なにか目的を持った自動車が行き交う、いうなれば業務用の道路である。
なので「おっ」と思うような光景も特になく、散歩時の写真が残っていない状態だ。
かろうじて一枚だけなぜ撮ったかわからない路上の写真が残っていたが、撮影時の記憶がまったくない。
ただ一心不乱に味噌ラーメンを求めて歩く、当時の「味噌への執念」が妙に漂ってくるので、いちおうここに残しておく。
念願の花道庵の味噌ラーメンは自分史上最高の絶品だった
念仏のように「味噌」と唱えながら無機質な環七を歩くこと1時間。
野方駅にたどり着くや、そこから伸びる商店街の活気と温かさに包まれたときは涙が出そうになった。
実際、夜の環七はブレイドランナーのように近未来の荒廃した雰囲気がなくもないので、この人間味あふれる野方カルチャーの光景には、「味噌ラーメンが食えなくとも悔いなし」くらいに感動したことを覚えている。
そして温もりであふれる商店街で人混みをかき分け、ようやくたどり着いた花道庵。
恐る恐る扉を開けると、奇跡的に待ち無しで残り一席に滑りこむことができた。
おれが頼んだのは基本となる名物の味噌ラーメン。
メニューや店内の張り紙を眺め、例の味噌ラーメン特有の野菜を炒める音を楽しんでいるうちに、熱々の一杯はすぐに目の前へやってきた。
正直、思った以上に簡素な佇まいに、不安が頭によぎったのは事実だ。
しかしスープを一口すすって、おれは度肝を抜かれた。
「……おいおいおい、めっちゃくちゃに美味しいぞ」と。
甘いラードとにんにくの溶け込んだトロみある濃厚スープは、今まで食べた味噌ラーメン史上、最も優しく複雑な旨味をもっておれの口内で爆発した。
この瞬間に、朝から続く「味噌ラーメンの口」という呪縛から最高の形で解き放たれたことを感じた。
さらにもやしとニラの美味しさときたら。
いつも食べているものと数ランク違うことが明白なシャキシャキとした力強い歯ごたえ、香ばしさ。これだけでも十分おかずになる完成度だ。
そしておもむろに麺をすする。
味噌ラーメンといえばこれ、の縮れた太麺にはスープが絡みつき、小麦のうまさ・噛みごたえ・スープとの相性そのすべてにおいて言う事のない満足感を与えてくれる。
時折かじる歯ごたえあるメンマの感触は心地よく、なによりトロットロのチャーシューには思わず吐息を漏らしてしまった。最初にスープを口にして以来、一度も箸を休めることなくおれは夢中で至高の一杯をすすった。
最後に器の底にたまるひき肉のサプライズに気づいた時は、思わず店員さんの目を潤んだ瞳で見つめてしまったほどだ。
さらにあまり期待せずに空腹を満たすために頼んでいた「ぶたごはん」だ。
--いや、まいりました。
旨味とジューシーさの概念をそのまま形にしたようなチャーシューに、おれは思いっきりノックアウトされた。
とろりと溶けた脂が白米にほどよく馴染み、これもおれ史上最高のチャーシューごはんであることが一口目に決定した。
おれは大満足の胃袋を抱え店を出た。
野方の商店街は先ほどと変わらず賑わいを見せており、レトロな灯りが人々の笑顔を照らしていた。
まだこの地に立って数十分であるが、この街には失くしてはいけない大事な文化と空気が今なお息づいていることがわかった。
この街の住人だったらどんなにいいことだろう。
そんな思いに駆られながら、おれは冷たい環七通りを我が家に向かい再び歩き始めた。