私が住んでいるこの一軒家は、昔勤めていたバイト先の先輩の実家だ。数年前に空き家になった後しばらくは先輩の友人が住んでいたが、その人が退去したため現在は私が住まわせてもらっている。たしかに現時点での住人は私ひとりだが、これは世帯主と名乗っても良い状態なのだろうか。ただの居候です、と言った方が面倒に巻き込まれずにすむ気がした。だが私にも社会人としてのプライドが若干ある。たとえ見ず知らずの相手であっても「え、その年齢でまだひとんち住ませてもらってんの?」と思われるのが嫌だった。「はい、僕が世帯主です」と答えると、男は手に持った書類を持ち変え、テレビの受信契約やアンテナがどうこうなどとしゃべり始めた。なるほど、そういうことか。「NHKですか?」とたずねると男は事もなげに認め、テレビの設置状況を確認してきた。
にわかに闘争心が沸き立った。YouTuberが巧みな話術で架空請求業者をやり込める動画。N党の立花氏がNHK職員を論破する動画。そういう類のものを私はこれまで結構な数見てきた。そして機会があれば自分も訪問営業の人を言いくるめてみたいとも思っていた。ちょうど退屈していたところだ。この自信ありげな兄ちゃんをちょっと転がしてやろう。
法律上そうなってる
思わず挑戦的な笑みがこぼれてしまいそうになるのを抑えながら私は言った。「テレビがあるにはあるんですけどねえ、前に住んでいた人が出ていく時になぜかアンテナの線を全部抜いちゃって。はは、意味わかんないですよね。それでテレビ全然映んなくなっちゃったんで。NHKも見られないし全く見てないんですよ、すいませんね」
全て事実だ。嘘がないとこんなにすらすらと言葉が出てくるのか。気持ちがいい。「じゃそういうことで」とお引き取り願おうとしたところ、男は動揺する様子もなく「テレビはあるんですね?」と再確認してきた。「……はい、まあ」「テレビがある場合はたとえ映らなかったとしても契約していただくことになってるんですよ」と男は言った。「ふーん……」そうつぶやいた後、途端に言葉が出なくなった。二の矢、三の矢を何も用意していなかったのだ。いや、本当は「映んないのに契約させられるの、おかしいだろ!」と反論したかった。しかしそれを言ったところで何になるだろう。「法律上そうなってるんですよ」に言い返せるような、高度な知識を私が備えているはずもない。そもそもなんだよ、「契約していただくことになってる」って。俺はそんなルール認めてないけど。理不尽な要求に怒りが湧いてきたが、とにかく私は一手目で致命的なミスを犯してしまった。契約を断るには最初から「テレビがない」と言い張るしかなかったのだ。
窮地に追い込まれ呆然と立ちすくんでいる私をよそに「それではお名前、ご住所の記入をお願いします」と淡々と手続きを進める男。こちらが納得していないことを示すようできるだけ乱雑な字で名前を書いてみたが、何の意味もない。ここから挽回する方法はないのか。急に電話がかかってきたことにして扉を閉め、そのまま鍵をかけてしらばっくれようか……やっぱり無理だ。これまでの会話の流れからいきなり逸(のが)れ、異常な行動を取るにはかなりの勇気がいる。それにもし数時間後に扉を開けたらまだ男が立っていて、「なめてんじゃねえぞオラァ‼」などと凄まれたらどうしたらいいのか。私がこうして反抗期の中学生のようにふてくされた態度をとっていられるのも、形式上とはいえ相手が下手に出てくれていたからなのだ。
「それでは印鑑とクレジットカードを持ってきてもらえますか」契約は最終段階に入っていた。私は家の中に戻り、とりあえずタバコを吸って時間の引き伸ばしを試みた。男はイラついているだろうか。いい気味だ。しかし10分経ったあたりからだんだんと男の反撃が怖くなり、玄関に戻って判を押した。
「どうせすぐテレビ捨てるんでソッコー契約解除しますけどね」
私の悔し紛れの台詞を聞き流しながら、男は「このあとオペレーターから最終確認の電話がいくのでそれをもって契約完了となります」と告げた。あ、それシカトすれば契約したことにならないのか、と微(ひそ)かな希望を抱きかけた私の内心を見透かしたかのように、「もしお電話に出ていただけない場合は私がまた何度も訪問することになりますので」と男は間髪を入れずに続けた。数分後、男の言ったとおり電話がかかってきて、契約は完了した。
台所の椅子にもたれかかりながら私は敗北感に包まれていた。まあよかったじゃないか、これでまたまっとうな大人に一歩近づけたんだし……そうやって何度も自分を納得させようとしてみても、「はい、一丁上がり」と顔をあげ玄関から颯爽(さっそう)と立ち去っていく男の姿がフラッシュバックしては「くそっ」と何度も声が出た。
文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2023年9月号より