※赤井直正(あかいなおまさ)/享禄2年(1529)~天正6年(1578)。兄・家清が本家を継ぎ、荻野家に養子に入ったため、荻野直正とも。もうひとつの渾名は“悪右衛門”。
一歩踏み外せば奈落の底
兵庫県のほぼ中央部に位置する丹波市。内陸で山々に囲まれた盆地が広がる。旧春日町市街地の黒井の町。その北の外れ、山の麓に立つ興善寺。黒井城は光秀の攻略後、重臣・斉藤利三の居城となるが、その麓の興善寺には、利三の娘・春日局の産湯の井戸もある。水堀と練塀に囲まれた、城館跡とも伝わるこの寺が黒井城への登城の拠点となる。
比高は220mとなかなか。山が反り返っているように見えるのは気のせいだろうか。山頂部にかすかに見える石垣を目指して、住宅街を抜けて登山口へ。
登城路は右回りと左回りの2コースある。左回りの方が緩やかそうなので、そちらから登ることにする。
緩くなかった……。はるか頭上を目指し、休み休み、登ってゆく。そのうち足元が岩っぽくなってきた。
道ははっきりしていて迷う心配は全くないが、とにかくキツイ。訪問したのは9月下旬だったが、滝のように汗が流れ続ける。これは城主が赤鬼でなくとも、攻める気が失せてしまうな……。
登り始めて15分ほどで、樹間から何か見えてきた。かと思うといきなり視界が開ける。
「石踏の段」と名付けられた、出城のような曲輪跡。この赤門、一体なんだろうか。城門の復元? 左右に像が収まる空間が設けられているので、寺の門か。ここに興善寺の「奥の院」でもあったのだろうか。
それはともかく、眺望が素晴らしい。
ここまで、よく登ってきたなあ、と、自分で自分を褒めてやりたいところだが、黒井城の中心部・本城はまだ先。残り1/3ぐらいか。気合を入れ直して、再び森の中の道を先に進むこと5分ほど。木々が頭上から消え、空が見えてきたと同時に、なんだか足元がヤバくなってきた。
冗談ではなく、「一歩踏み外せば奈落」だ。しかも足元が岩場で、複雑な凹凸。本城はすぐそこだが、最終にして最大の関門だ。ときどき地面に手をつきながら、慎重に突破した先に──。
ついに“天空の城”に到達
本城にようやく到達。気持ちいがいいほどスカッと視界が開けている。頭上はもちろん、足元も地面があるのはわずか幅十数mほどで、文字通り天空に浮いているよう。
黒井城の本城は、東曲輪、三の丸、二の丸、本丸、西曲輪と、直線的に曲輪が並んでいる単純な縄張り。端から端まで、100mぐらいか。
単純だが曲輪間は石垣で段差部分を固め、さらに防御のための工夫も見られる。
ただしなんといっても、この本城の“守りの要”は、両サイドの落差だろう。おそらく全国の山城で、最強。こんな急角度、見たことがない。
この崖、攻略ムリでしょ。「天然の要害」とはこのことか。これにより登城ルートはほぼ限定されてしまうため、そこだけ塞げば容易には落ちない。
本城でもっとも高い本丸に立つと、先ほどの石踏の段をはるかに凌ぐ絶景が待っていた。
夕暮れ時の田園地帯が美しい。鳥になって空を飛んでいる気分。画像だけならドローンでも見られるが、足元に地面があると、実感がまるで違う。丹波の赤鬼はきっとここに立ち、城下に迫る光秀を睥睨(へいげい)しながら、「攻められるもんなら攻めてみよ」と、自信満々だったに違いない。
史実では、城主が直正の甥・忠家の代になった直後、猛攻を受け落城。光秀の丹波平定戦も終了することになる。
もうひとつの“天空の城”へ
金山城を訪れたのは、黒井城訪問から約2カ月後の11月末、既に落葉が地面を覆う季節だった。麓の集落、追入(おいれ)からの比高は290m。なかなかである。目測だが、距離も黒井城の倍近くあるように見える。
追入では登山口がわからずしばし右往左往。追入神社の脇にあるはずだが、境内をウロウロするも道らしきものは見あたらず。目指すべき城の方向はわかっているので、仕方ない、ヤブコギか……と思ったが再考。
たまたま出会った集落の方から情報収集。登山口は、神社から少し南に離れたところにあった。看板も出ていた。
登り始めるとやはり、予想通り。延々、黒井城に引けを取らぬ急勾配が続く。
しかもこちらは、ひたすらほぼ一方向に進む。晩秋でも汗がじんわり吹き出てくる。しかし、とにかく登るしかない。山城は向こうからやってきてくれないので、こちらから訪ねてゆくしかない。徐々に思考もおかしくなってくる。
距離にして500~600mばかりを、15~20分かけてようやく登り切ると主尾根。分岐を右に折れ、さらに登る。少しだけ勾配はゆるやかに。さらに10分ばかり登ると、平場が現れた。しかも木立の中に石垣がある。
ついに城域か、と思いきや、これは圓林寺という廃寺の跡なのだった。
黒井城の「石踏の段」同様、ここも出丸だったのではないだろうか。その裏手に続く山道を少し登ると、今度は明らかな城の遺構が目の前に現れた。
往時は城門でも設けられていたのでは? ここから奥は間違いなく、城内といっていいだろう。平虎口の先、全長100m近くある「馬場跡」を抜けて、分岐を右へ。最後の急坂を登ると、金山城の主要部がいきなり姿を現した。
城の主要部は巨石の宝庫
ゴツゴツした巨石がそこかしこに。よく見ると、斜面にも幅数mの巨塊が見える。まるで“岩を産む山”だ。黒井城も岩の多い山だったが、金山城はそれをはるかに凌いでいる。
東郭まで登って振り返ると、落差と折れで敵の侵入を防ぐ構造だ。ここまで攻め込むまでに相当な労力を強いられるが、最後の最後まで抜かりない。
東郭は40~50mの細長い曲輪だが、いたるところに巨石がゴロゴロ。一部は明らかに人工的に配置し、直線的に攻めこまれることを防いでいる。巨石は防御側にとっては、身を隠す盾の役割もはたせそうだ。土塁や石垣ではなく、巨石そのものを防御壁にするスタイルは、極めて珍しい。
ところで、光秀はなぜこの位置に前線基地を築いたのか。その答えは、打倒すべき二大勢力との位置関係にある。波多野秀治の八上城と、赤井直正の黒井城。地図でみると一目瞭然だが、両者のちょうど中間地点にあたるのが金山城なのだ。直下には両城を結ぶ鐘ヶ坂の峠もある。第一次黒井城の戦いの二の舞とならぬよう、両者を分断する作戦だ。
さらに驚きなのは、金山城からは、この両城をはっきり視認できること。ここまで理想的な陣城もない。光秀、それを知った時は、己の勝利を確信したに違いない。
主郭まで登り、光秀の気分を味わってみる。
盆地を見下ろすような形で、富士山のように左右バランスのよいきれいな形の山が八上城。城下も含め完全に丸見えだ。
北東方向に目をやると、山脈の向こうに黒井城が見える。
こちらは城下までは見えないが、本城の石垣がはっきりわかる。何か大きな動きがあれば、即座に把握できたはずだ。
金山城の天空の城っぷりも、黒井城に引けを取らない。実に気持ちいい絶景。ただし山上の吹きっさらしなので、風が強い。9月の黒井城はそれが心地よかったが、晩秋ともなると身に染みる……。
巨岩が宙に浮いている!?
金山城、主郭から西側にもさらに巨石が連なっている。その隙間に小曲輪らしき平場がちらほら。
少し下って振り返ると、金山城最大の落差を誇る高石垣。ここは東郭と異なり、天然石と人工的に砕いた石を組み合わせたハイブリッドスタイルだ。
そして、先ほど見下ろしていた巨石の裏側に、驚異の奇景が待っていた。
巨石が宙に浮いている。しかもこの岩場の向こう側は、ほぼ直滑降の数百m近い急傾斜。奇岩巨石だらけの金山城だが、これだけは別格の雰囲気だ。15世紀の地震によってこうなったというから、光秀が築城した頃には既に、この姿だったことになる。
それにしても、“赤鬼”退治のための陣城に、“鬼の架け橋”とは。
巨石群は、その先にももう少し続いていた。鬼の架け橋ほどはインパクトはないが、キレイにパックリと割れた奇石を発見。
すぐそばに案内表示がある。
通れなかったので、岩の上を登って乗り越えた。ダイエットします。
『黒井城』詳細
『金山城』詳細
取材・文・撮影=今泉慎一(風来堂)