1964年創業、出前メインの町そばから素材を吟味した飲めるそば店へ
幹線道路沿いに、上品な佇まいのそば店『幸町 満留賀』を見つけた。看板に“石臼挽き蕎麦”と書かれていて、いかにもおいしいそばを食べさせてくれそう。さっそく店の中に入ってみた。
ここは、1964年、そばの5大源流のひとつ『三河屋』系統の『満留賀』で修業した初代店主が、川崎市幸区中幸町に創業したそば店。ほどなくして現在の幸町に移転し2001年には初代の息子で2代目店主の野田直裕さんが『幸町 満留賀』をオープンさせた。
「初代はいわゆる出前が中心の町そばでした。でも今は、ゆっくりとお酒を飲みながらおつまみやそばを楽しんでいただける店にしました」と野田さん。
野田さんは高校卒業後すぐ、そばの道に入った。初代から「自分とは違うものを学んできてほしい」と言われ、鶴見にある『長寿庵』で3年修業をした。『長寿庵』の主人はいい意味で型破りで、そば作りの技術だけでなく仕事をする心構えまで教えてくれた。
「その当時そば屋の修業って8年は住み込みで働く慣習があったんですけど、旦那さん(長寿庵の主人)は、『お前は実家がそば屋なんだから素地もあるし、3年で十分だろ』とお墨付きをくださいました」。
野田さんは『長寿庵』として独立することもできたが、実家の『満留賀』の屋号を継いだ。だが、経営が悪化しても昔ながらの方針を曲げない父親と、師匠のように斬新で柔軟な発想を取り込み店を盛り立てたい野田さんは、幾度となくぶつかった。
「夢を持って実家の店に入ったけど、親父に出前しかやらせてもらえなかったので旦那さんに相談に行ったんですよ。そしたら『お父さんの店なんだから、お前はとやかく言える立場ではない。金を掛けずして売上を上げる方法を考えろ。何か必ず方法があるはずなのに、お前が見つけ出せないだけなんだ』と。それを聞いて、よしっ本気でやってやろう! と思いましたね。それがあったからこそ今があります」。
いろいろなそば屋を食べ歩いてメニューを研究したり、御用聞きをしながら出前の常連を増やしたり、そば屋の旦那衆が集まる勉強会に出席して情報交換をしたりなど。売上が上がっていくとともに野田さんの努力が認められ、28歳のときに2代目店主になると店のコンセプトからかえしの作り方まで一新した。
「自分が一生かければ、『そばを食べたいから満留賀に行こう』って思われる店にできるかもしれないと思って、『幸町 満留賀』と店名を変えたんです」。
“子育ての終わったご夫婦の日常のプチ贅沢”というテーマを掲げているため小さな子供は入店できないのだが、大人同士でしっぽり味わえると地元の人気店になった。
経営の参考に欠かせない「孫氏の兵法」
野田さんは今も“できるだけお金をかけずに売上を上げる方法”を模索し続けている。独学でビジネスのノウハウや経営術を身に付けたそうだが、なかでも「孫氏の兵法」は参考にしているもののひとつ。
たとえば、“0.5個ずらしたオリジナリティ”をもとに構成したメニューだ。「メニュー名では想像しづらくてすごく斬新なものを出されると、とくに男性は定番を選びがちになる傾向が強い。でも、そば屋の定番メニューから0.5個くらいのズレだとそれが『面白いね』となる。これも孫氏の兵法に載ってるんですよ」。
新商品を売り出す時も、兵法の教えにちなんでお金をかけずにトライ&エラーを重ねる。ポカンとしている筆者のために野田さんが具体例を交えて教えてくれた。「一般的に新商品は1日平均10食売れるとヒット商品って言われてるんですね。半年を目標達成の期限に設定して、売上が上がらなかったら原因を考える。それを踏まえて対策をしても目標を達成できなかったら一旦そのメニューを取り下げます。それで何年か経った後、もう1回出してみるんです」。
兵法におきかえれば、結果が出ないのにグダグダと戦をしていては兵糧も尽き軍全体がダメージを受けるというわけだ。「うちの店でいえば、売れなくてもそのメニューに投資してるので。ダメな商品は一回引っ込めて、エース級だけ置いておくようにしているんです」。なるほど、面白い。ということは、このメニューはどれも自信作ってことですね。それにしてもおいしそう〜。いよいよお腹が減ってきました。
鴨の脂を十分に抽出した鴨せいろ
メニューの序盤に1ページを使って登場したのが鴨せいろ1540円。個人的にも大好物なメニューだし、定番の人気だというのでオーダーしてみた。
勉強熱心な野田さんのこと、そんじょそこらのそばではない。まずはソバ。北海道や茨城のソバ農家と直接契約をしていて、鮮度のいいソバを石臼で自家製粉するから喉越しがよく、ふくよかな香りのそばができあがる。
続いてつけ汁を見せてもらった。クセが少なく身が柔らかい埼玉県産鴨のチェリバレー種のメスのみを使用している。
「たっぷりと鴨の甘みを出すためにブロック状のものを買って、自分で下処理をします。使用する肉の部分以外を捨てずに工夫して使うから、鴨の旨味や脂が層になるんです。かえしには本鰹と宗田鰹、サバ節で取った出汁を加えて作っています。これは他のそばつゆの素にもなっているんですが、鴨の脂ともすごく相性がいいんですよ」。わぁ〜、聞いているだけでヨダレがでそう。
ほどなくしてテーブルに運ばれてきた鴨せいろ。つけ汁の表面に油膜ができてる! さっそくいただきます。
まずはそばだけ食べてみる。つるりと喉越しがよく香りもいいが、細いのでパンチのあるつけ汁に負けてしまうのではないか? なんて考えつつ、つけ汁につけてみると……。
勢い余ってそばを大量に入れてしまったけど、このつけ汁とそばの相性がサイコーだから一気に食べちゃった! 確かにつけ汁は野田さんが言っていた通り、鴨特有の甘みがあって濃厚な脂だ。そばを啜ったら、口の周りに脂がまとわりつくほどだが、鴨の旨味の後に爽やかなゆずの香りが追いかけてくる。
あっという間に平らげてしまうと、女将さんがアツアツのそば湯を持ってきてくれた。冷えたつけ汁の脂が再び蘇り、箸で混ぜグビリグビリと飲み干した。ああ〜、幸せだ。
これはきっとほかのメニューも一筋縄ではいかないぞ。こうして毎回、食事をするたびに幸せを感じさせてくれるのだろう。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=パンチ広沢