戦国時代の寿命はどれほどか知っておるか?

我らの時代と今の時代には大きな違い、隔たりがあるわな。

この400年の間にものの考え方も技術力も、あり方そのものが根底から覆っておる。

わかりやすい例を挙げるならば、我らの時代、遠方からの連絡手段は狼煙(のろし)や太鼓、螺貝(ほらがい)しかなかった。しかし現世ではごまんとあって、地球の反対側であっても、さほど難儀せずに話ができる。戦で使う武器も築城技術も恐ろしいほどに進化しておって、我らの時代と変わっておらんのは傘くらいじゃろう。

日々便利になっておるこの時代であるが、それに勝るとも劣らない進化を見せておるのが医療の分野である!!

医療技術の発展は近代化の象徴の一つと言えよう。

して、皆は戦国時代における平均寿命はどれほどか知っておるか?

民が30歳、武士が40歳前後である。

えらく短く感じるであろう。

これには戦による死はもちろんのことながら二つの理由が大きく関わっておる。

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一つ目は栄養不足の問題である。

故に、武士の方が寿命が長く徳川家康殿(73)や島津義弘殿(83)、細川忠興(83)など家柄が良い者たちは特に長生きであったと言えよう。

それに比べ、天下人であった豊臣秀吉が60歳という年齢で老衰によって亡くなったのは、元は足軽として貧しい生活を送っており栄養不足であったからではないかと考えられておったりもする。

そして二つ目は幼くして亡くなる子供が多かったこと。

戦国時代や江戸時代の子のうち大人へと成長できるのはおよそ七割と言われておって、多くの子供達が幼くして命を落としていたのじゃ。

栄養不足に加えて、衛生的ではない環境に、医療も行き届いておらぬ。体力のない幼き子供たちは一度病にかかるとそれに耐えきれなかったのであろう。

実は、子供の死亡率の高さは将軍家の方が顕著であって、上の理由に加えて政略的な近親婚が繰り返されたことと、乳母となる侍女たちが使う“おしろい”が有害であったことに関係があると言われておるのじゃ。

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故に寿命が延びたと言ってしまうと少しばかり異なった受け取り方をしてしまうやも知れん。

無論、現世では医療の向上と、衛生的な環境によって長く生きられるようになった。それは幼くして、或いは若くして亡くならずに済むようになったのが、平均寿命が延びた大きな理由であるわな。

そして医療技術の進化も無論であるが、我らの時代と大きく異なるのが、病を知る究明の分野であると儂は考える。

我らの時代に多くの人々を死にいたらしめ、原因が分からない不治の病とされておった結核や梅毒、天然痘は現世では治療可能な病となっておる。

我らの時代には治療法がわかっておる病の方が珍しく、現世の者から見れば誤った治療ばかりであったじゃろう。

戦で負傷した者には馬糞汁を飲ませたり、梅毒のものには水銀が効くと考えられておったりと、間違った治療で亡くなる者も多かった。

治療と、祈祷や呪いの区別がついていないような時代であったのじゃ。

 

じゃが、そんな中。否、そんな中だからこそ名医と呼ばれる者がおったのじゃ!

これよりは戦国時代の伝説の名医・曲直瀬道三(まなせどうさん)について話して参るわな。

天皇も将軍も天下人も診た名医・曲直瀬道三

近江国で生まれた曲直瀬道三殿は寺で学問をしたことをきっかけに、当時の日ノ本の最高学府である足利学校に入った。更なる学びを得る為じゃな。

そこで医学に興味を持ち、高名な医者に従事して漢(かん)の医学を修めたそうじゃ。

その後は医業に専念し、様々な患者を診ることになるのじゃが、時の将軍・足利義輝殿の治療をした頃からその実力が知れ渡り、多くの傑物たちを治療していくこととなる。

因みに道三殿が学んだ足利学校は平安時代から続くとされる日ノ本初の高等教育がなされた学校で、室町将軍である足利家へと続く足利源氏の発祥の地とされておる。

閑話休題、道三殿が診察した者は数多く、室町幕府の実権を握っておった細川晴元殿や、混乱が続く畿内を治めて天下人となった三好長慶殿。

文化人で爆死事件の逸話で有名な謀り者、松永久秀殿など畿内を中心に多くの戦国武将に認められた。

道三殿の名声は止まることを知らず、ついには朝廷に呼ばれ正親町天皇(おおぎまちてんのう)の診察を行った。それからは朝廷の医療も担うこととなり、日ノ本一の名医と呼ばれるようになったのじゃ。

1566年(永禄9)には陣中で中風(現世の脳卒中)で倒れた毛利元就殿のもとへ参じると、当時の最先端の医療である灸を施して見事元就殿を快復させる神業を見せておる。当時の元就殿はすでに70歳で我らの時代でいえばかなりの老齢。日頃から健康に気を使っておった元就殿といえど、後遺症が残らずに快復が叶ったのは道三殿でなければなしえなかったであろうな。

あまり整っておらんかった毛利家の医療体制を整備した後に、道三殿は畿内に戻ったと言われておる。余談ではあるが、元就殿はこの奇跡の快復の翌年になんと末子を授かったそうじゃ。

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道三殿は症状からその元となる病を突き止め、それにあった治療をする為に診察を重視しておった。

そして、当時の薬が中心であった治療に鍼灸を組み合わせるのが道三流であったそうじゃ!! 道三殿が著した書物の中にも「鍼灸をするが薬は用いない、もしくは薬は使うが鍼灸はしない医者は良い医者ではない」とある。

当時は医術も多くの流派に分かれ、一つの方法に拘る者が少なくない中で、病に効く様々な治療を掛け合わせ柔軟な姿勢で病に立ち向かうのが名医・道三のやり方というわけじゃな!

将軍義昭様を擁して上洛された信長様の診察も行い、後には伝説の香木・蘭奢待(らんじゃたい)を下賜されるなど、信長様も認めた名医と言えよう。

国を統べる天下人のみが手にすることができる伝説の香木。 その存在を耳にしたことはあるだろうか。これは街談巷説でも御伽噺でもなく実際に日ノ本に存在するものである。その香木の名は『蘭奢待(らんじゃたい)』。現世ではあまり知られてはおらぬかも知れぬが、我らの時代においてこれを手にできるものは朝廷から認められた者、すなわち天下人の証であったのじゃ!此度の戦国がたりでは徳川殿も手に入れようとしたと伝わるこの蘭奢待について話して参ろうではないか。いざ参らん!!

道三殿の弟子たち

道三殿が88歳で亡くなった折には多くの弟子や医療に携わる者が葬儀に参加し、その死をいたんだそうじゃ。

医療の腕はもちろんのことながら、優れた医療を世に広める為にたくさんの弟子を持ち、医学校を開くなど日ノ本の医療に大きく貢献なされた方だったのじゃ。

その功績から医聖や日本医療中興の祖と呼ばれ今にもその名を伝えておる。

して道三殿の死後その後を継いだのが、道三殿にその腕を認められ養子となった曲直瀬玄朔(げんさく)殿である!

玄朔殿も数多くの功績を残しておる。中風で倒れた正親町天皇を見事回復させ、秀吉の外征にも従事して海を渡り、毛利輝元殿たちを治療された。

秀吉に信頼されておった玄朔殿は、秀吉の後継である秀頼様のかかりつけ医師となった他、老いた秀吉の治療も担い、秀吉の最期を看取った医師でもあった。

徳川家の天下になってからは、二代将軍・秀忠殿に呼び寄せられて江戸に邸宅を構え、幕府と朝廷の両方のかかりつけ医として活躍していったのじゃ。

玄朔殿が亡くなったのちも、道三殿の流れを汲む者たちによって幕府の奥医者は構成されることとなり、江戸時代の日本の医療を支え続けていったそうじゃ。

終いに

此度の戦国がたりはいかがであったか!

戦国時代の医療について話して参ったが、現世とは異なり、技術も知識も環境も整わぬ中で奮闘しておった医師たちの存在があったことを知っておいてほしい。

 

因みに著名な戦国武将で、最も長生きしたのは真田幸村こと真田信繁の兄、真田信之殿である。

徳川二代将軍の秀忠殿は、上田合戦をはじめ真田家に大敗をしておることから真田家を嫌っておった。そして父と弟が徳川家に敵対しておった。……などと、相当な精神的負担を抱えておった上に病気がちであったにもかかわらず、93歳まで生きたのじゃ。

信之殿は人望にも才覚にも優れた人物で外様大名にもかかわらず徳川家から重く用いられておった。

家康殿の十男で紀州藩初代藩主の頼宣殿は、信之殿を深く尊敬しておってよく話を聞いておった。三代将軍・家光殿、四代将軍・家綱殿に至っては年老いて隠居を申し出た信之殿を幾度も引き止め、信之殿がようやく隠居できたのは91歳の時であったと聞いておる。

のちに信之殿が家督を譲れなかった為に後継問題が生じたりもするのじゃが、戦国時代では考えられぬほどの老齢にも関わらず、政の一線に立ち続けたことは特異なること。

日ノ本一の策略家であった父・昌幸殿、その武勇から日ノ本一の兵と呼ばれた弟の信繁(幸村)に負けず劣らず、信之殿も日ノ本一の武士であったと言えよう。

 

健康に長く生きることが叶う今の時代だからこそ、皆も確(しか)と自らの体を省み、健やかに過ごそうではないかといった具合で此度は締めようかのう。

これよりも戦国にまつわる話を皆に届けてまいるでな、次の戦国がたりも楽しみにしておくが良い!!

さらばじゃ。

 

取材・文・撮影=前田利家