車好きの青年が始めた喫茶店に集ったのは、車愛好家ではなくジャズ・ミュージシャンの卵たち!
1965年12月24日。新宿伊勢丹裏の路地で、車好きの大学生・佐藤良武さんが始めた20坪弱の喫茶店『PIT INN』。由来は、カーレースでマシンが給油やタイヤ交換などをする“ピットイン”だ。
「オーナー(佐藤良武氏)から聞いた話ですが、ピットインの表記は本来、PITが3文字でINが2文字。だけど、3と2ではバランスが悪いので、同じ3文字になるようにINNに変えたんだそうです」とは、今回お話を伺った店長の鈴木寛路さん。
車好きが集まって、コーヒーを飲みながら車談義を楽しむ。店に流れるBGMはイカしたジャズ。しかし、裏通りという立地が災いしたのか、車が趣味のお客さんはさっぱり集まらない。
「車のアクセサリーなどを飾った喫茶店を始めて、当時カッコイイ音楽だったジャズをかけた店でやっていこうと思ってやったら、BGMのジャズ聴きたさにジャズファンやジャズメンが集まってきちゃって。その中には、演奏する場所に飢えたジャズ・ミュージシャンの卵もいて。それでライブハウスになってしまったんだと聞いています」と鈴木さん。
「新宿で好きなことをやらせてくれる店があるらしい」。ジャズ・ミュージシャンたちの間でそんな噂が広まり、『PIT INN』はジャズクラブへとその存在をシフトしていく。実際、佐藤氏は「車好きが集まる喫茶店としては大失敗でした」と、2015年にオープン50周年を記念して出版された「新宿ピットインの50年」という本の中で語っている。
そして佐藤氏は、自由にジャズを演奏したいと心から渇望する若きミュージシャンたちに、そのための場所として『PIT INN』を提供することを決意する。フロアにステージ用のスペースを作り、客席40席、1ドリンク250円でのスタートだった。
喫茶店からジャズクラブへ。果たしてこの決断が、日本のジャズ・シーンをグイグイ牽引することとなる“奇跡の場所”を誕生させたのだ! そして、ここをホームグラウンドとし、世界へと飛び出した“ピットイン育ち”をの数多くの一流ミュージシャンを生み出していった。
朝、昼、夜の3ステージ制から、1992年の移転後は昼、夜の2ステージ制に。ライヴのサブスク配信も開始!
『新宿PIT INN』で演奏することを目標にするミュージシャンたちの登竜門的存在だったのが、朝の部。『新宿PIT INN』の伝統であり伝説でもあるのが、この朝の部からスタートして実力をつけ、プロになるにつれ夜の部へと移行していくのだ。
「今の場所に移ってからは、朝の部はなくなりました。昔と違って機材も複雑でセッティングに時間がかかるようになって、お客さんを待たすことになったのが大きな理由ですが、バンドも演奏を長くやりたいというのもあり、リハーサルもちゃんとやっていこうということで2部制にしたんです」と、鈴木さん。だが、2ステージとなった今でも、やっぱり昼の部は若手の登竜門的存在であることは変わらない。
『新宿PIT INN』のライヴは、1ドリンク付のチケット制だ。基本、昼の部の平日なら1300円(税別)1ドリンク付、夜の部3000円(税別)~1ドリンク付で、ミニマム・チャージは必要ない。昼の部(平日)なら、この金額で未来のビッグ・ネームの演奏を間近で聴けるのだ!
なお、コロナ禍をきっかけに、自宅にいながら、また、地方在住でもいつでも『新宿PIT INN』のライヴを聴くことができるサブスク配信「PIT INN NET JAZZ」を開始した。なんと月額1100円で、多くの昼の部・夜の部のセカンドステージの生配信やアーカイブを会員月間(月初めの1日から月末日まで)視聴できる。
「やりたい音楽をやりたいようにやってもらう」。それが唯一無二のライヴを魅せる!
『PIT INN』がジャズクラブとして若きジャズ・ミュージシャンたち、ジャズリスナーたちの情熱に包まれつつあった頃の新宿は、芸術や演劇、文学などを志す学生が多く集まり、文化人も新宿に寄り集まる熱気と活力あふれる場所だったという。
紀伊国屋書店で本を買い、武蔵野館で映画を観てゴールデン街で酒を飲むといった、文化が育つ土壌があった。「そんな背景の中、『PIT INN』は私の意向とは関係なくひとり歩きして育っていった。お客さんとミュージシャンに育てられ、あの時代とあの場所にうまくミートしていた」と、佐藤氏は語っている(「新宿ピットインの50年」より)。
佐藤氏は常日ごろ『新宿PIT INN』はミュージシャンに育てられたと感謝の念を忘れないが、その顔ぶれは渡辺貞夫を始め、日野皓正、山下洋輔、坂田明、森山威男、中村誠一、辛島文雄、佐藤允彦、本多俊之、向井滋春、吉田美奈子、国府弘子、渡辺香津美、など、など、など! 枚挙にいとまがない。その名を聞くだけで全身鳥肌がたち、眩暈がするほど豪華だ。
そして、「『PIT INN』のお客は耳が肥えている」「『PIT INN』のお客さんは世界一厳しい」「『PIT INN』のお客は素晴らしい。ヘタなことはできない。すべてを見透かされているような怖さがある」。これも、『PIT INN』で演奏するミュージシャンたちが口を揃えていうことだ。
「ミュージシャンがやりたい音楽を自由にやってもらう」というオープン当初から一貫した姿勢が、ミュージシャンとリスナー、そして『新宿PIT INN』自身をも育てたのだ。だからこそ、ここで聴くライヴは唯一無二のライヴなのだ。
続け続けることが大事で、変えるつもりはない。今のままをずっと続けていく
「今日が終わったら明日、明日が終わったら明後日というふうにやってきたので、いろんなことがあったんだろうけど、思いつかないな」。人生の半分以上を『新宿PIT INN』で過ごす鈴木さんに印象に残ったことを聞くと、こんな答えが返ってきた。
この不用意な問いに、一瞬、遠い目をして少しの間をおいて答えてくれた鈴木さん。まさにこれが、『新宿PIT INN』が守り続けてきたものの答えなのではないかと感じた。そして鈴木さんにとっての『新宿PIT INN』とは? という問いには、「僕にとってのジャズでしょうね」と、率直に答えてくれた。
インタビューのあと、スタッフが夜の部の準備をするステージ横に戻った鈴木さん。今夜もここで新しい歴史が刻まれるのだ。伝説のジャズの名店の店長は、とてつもなく優しい眼差しをしていた。
取材・文・撮影=京澤洋子(アート・サプライ)