物語終盤、ドラマを生みまくった場所、鶴岡八幡宮

まずは、ストーリーをおさらいする。

伊豆の弱小豪族北条家に次男坊として生まれた北条義時(小栗旬)。伊豆の若武者でしかなかった彼に人生の転機が訪れる。姉、政子(小池栄子)と源頼朝(大泉洋)が結婚したことをきっかけに、頼朝の片腕となるのだ。そして、ついには当時、繁栄を極めていた平家一門を破る。頼朝は鎌倉の地に幕府を開き、北条一族も大きな権力を手にしていく。

頼朝亡き後、頼家(金子大地)が跡を継ぎ二代将軍となり、13人の御家人たちによる合議制がとられる。北条家はそのなかでも常に力を誇示し、義時は執権として多くの御家人と激しく対立していく。その後、三代将軍実朝(柿澤勇人)の代になっても御家人たちの権力争いは続き……。

簡単に振り返っただけでもぞくぞくする。『鎌倉殿の13人』は前半こそ、ほのぼのした笑いの要素があふれる作品だったが、物語が進むに連れ、爽やかで純真だった義時が変貌。鎌倉を、そして北条一族を守るべく修羅の道を突き進む。もともとは心を1つにしていた御家人たちとの対立や、北条家内の闘争も多く、葛藤と切なさに満ち満ちた義時の姿に、胸を痛めた視聴者も多かったはずだ。

鶴岡八幡宮。
鶴岡八幡宮。

ということで、まず義時と歩きたいのは、やはりここ。鶴岡八幡宮だ。物語終盤でもっとも注目された場所だろう。右大臣に叙されることになった三代将軍・実朝(柿澤勇人)の拝賀式が執り行われた場所であると同時に、鎌倉時代最大の事件の舞台でもある。そう、公暁(寛一郎)が源仲章(生田斗真)と実朝を惨殺したあの大階段がある神社だ。

2010年に倒れた大銀杏は残った根から若木を再生。立派な銀杏が育ちつつある。
2010年に倒れた大銀杏は残った根から若木を再生。立派な銀杏が育ちつつある。

公暁が隠れていたという伝説が残る通称隠れ銀杏は、この階段の横にあったが2010年に倒れてしまい、今は再生した若い銀杏の木を眺めることができる。実朝と二代将軍・頼家(金子大地)の息子公暁。甥っ子が叔父を殺害するという悲劇は歴史上でも有名な話だが、今回のドラマでも力をこめて描かれていた。視聴者はすでにこの歴史上の大事件を知っているから、毎話少しずつ進む事件へのカウントダウンに胸が熱くなった。

上ってみると階段はなかなかに急だ。
上ってみると階段はなかなかに急だ。

実際に階段を上ると、かなり急勾配。その高さに足が震えた。しかも、実朝が暗殺された1219年の2月13日は雪。ドラマでも描かれたように幽玄な雰囲気の神社での惨劇というだけでドラマティックだが、義時の目線でこの事件を考えるとさらに面白くなる。

ドラマではこの暗殺事件の裏で義時の盟友、三浦義村(山本耕史)が暗躍していた。さらに、鎌倉を捨て朝廷に近づこうとする実朝に対し義時が怒りに打ち震えていたという背景もある。鎌倉殿という地位をめぐる表面の権力闘争だけでなく、裏側でのパワーゲームの面白さ、残忍さ。まさにこのドラマの魅力が凝縮されたシーンだったと言えるだろう。たくさんの戦友を追い落とし、執権という地位を確立した義時は、あの雪の日、この階段をどのような気持ちで眺めていたのだろうか。ドラマでは主演の小栗旬が暗黒面へ落ちていく、ダークヒーロー義時の不気味さを見事に表現していたが、執権としての日々は次に命を奪われるのは自分だとビクビクするものだったに違いない。鶴岡八幡宮の階段を上りながら、ときに虚勢を張るように吠え怒っていた義時の顔が頭に浮かんだ。

そもそも、鶴岡八幡宮は『鎌倉殿の13人』、前半戦の主人公といえる源頼朝(大泉洋)に由縁がある神社だ。頼朝の先祖、源頼義が勧請した由比若宮(元八幡)が起源で、頼朝がこれを今の場所に移した。頼朝は鶴岡八幡を崇敬し、鎌倉幕府の象徴にして中心的な存在となった。そんな由緒ある場所で、源氏の血が途絶える悲劇が起こってしまうとは……。ドラマでは大泉洋が演じ、厳しさと強さを持ち合わせながらも愛嬌たっぷりだった頼朝。彼は天国から、混沌としていく幕府の様子をどんな想いで見つめていたのか。大泉が演じたような快活な頼朝がもう少し長生きしていたら、鎌倉幕府はまた違った未来を迎えていたに違いない。

小町通り。
小町通り。

鶴岡八幡宮から徒歩5分。多くの人々でにぎわう小町通りがある。人気の飲食店、お土産屋が立ち並びいつも観光客でごった返している。鶴岡八幡宮を訪れた際はぜひこちらも訪れておきたい。頼朝が作り、義時たちが守ろうとした「鎌倉」は確かに今も続き、多くの人に愛されていることを実感できるはずだ。

源頼朝、北条義時の墓まで散歩!800年以上も前の英雄たちを想う

頼朝の墓。
頼朝の墓。

次に訪れるのは頼朝の墓だ。

実は鶴岡八幡宮から徒歩8分ほどで行けるので、鎌倉を訪れたらぜひ足を延ばしたい。「法華堂跡」という場所だ。法華堂は頼朝の墓を中心とする史跡群で、今も多くの人が訪れる観光スポットとなっている。

現在建っている塔は、薩摩藩主、島津重豪(しげふで)が整備したものと言われている。島津氏の祖先、島津忠久が頼朝の子だったという説があり、これを受け江戸時代に重豪が墓を整備したのだ。鎌倉時代から永い時が流れても、武家社会を築いた頼朝が武士たちから尊敬され続けていたことが窺い知れる。

法華堂跡周辺の標識。
法華堂跡周辺の標識。

最後は、このドラマの主人公・北条義時の墓を目指そう。わかりやすい標識がたくさん立っているので、地図がなくても散歩できる。

義時の墓があったといわれる法華堂跡。
義時の墓があったといわれる法華堂跡。

頼朝の墓から東へ歩いていくと、義時の墓が建てられた場所といわれている法華堂跡がある。

ARで当時の法華堂を体感。
ARで当時の法華堂を体感。

現地の掲示板にはQRコードが付いており、スマホでAR(拡張現実)の法華堂を見ることができた。実寸大のように見えるCG映像は大迫力で、当時これだけ大きな墓を設けたとは、さすがは執権・北条義時だ。

こうして、頼朝、義時の墓を巡り考えたことがある。ここは最初の御所があった「大倉」の裏手。鎌倉幕府の中心を眺めるように2人の墓所が造られたことに驚く。権力に囚われた2人は死してなお、鎌倉を見守り続けたという訳だ。

またこの地には、三浦泰村一族の墓と呼ばれるやぐらがある。泰村といえば、三浦義村(山本耕史)の息子で、北条氏と三浦氏との戦い、宝治合戦で自害することになる人物だ。『鎌倉殿の13人』の先にもまた、たくさんのドラマがあり歴史が今へと引き継がれてきたのだ。

ここまで、北条家や頼朝目線でドラマを振り返ってきたが、この作品は幕府を守る御家人たちが、一人ひとり見事にキャラ立ちしていて作品をより重厚なものにしていた。例えば今、名前が出た三浦義村。山本耕史のミステリアスな雰囲気がぴったり合って、敵とも味方ともつかない義村という謎めいた男をより魅力的な存在にした。ほかにも上総広常(佐藤浩市)、畠山重忠(中川大志)や和田義盛(横田栄司)といった御家人たちにはそれぞれに深い物語があり、彼らが討たれるシーンはいずれも大河ドラマ史に残る壮絶なものになった。鎌倉をより良い世にしようと奮闘した武士たちが、この作品を盛り立てたことも忘れてはならない。それぞれの聖地巡礼もいつかしなくてはと、今回鎌倉を歩いてみて切に感じた。

『鎌倉殿の13人』はパワーゲームだけでなく、家族愛を描いた作品だった

再び鶴岡八幡宮の前に戻ってくると、まだ多くの人で賑わっていた。皆が皆、『鎌倉殿の13人』ファンというわけではないだろうが、このドラマが鎌倉人気にさらに火をつけたのは間違いないだろう。

『鎌倉殿の13人』は鎌倉時代のパワーゲームを1年かけて丹念に描き切った作品だった。しかし実際に鎌倉の街を歩くと、違う感慨も生まれてくる。このドラマはゴツゴツとした権力闘争だけでなく、家族を想う、一族を想う人間ドラマではなかったか。家族の愛情をしなやかに描いた作品ではなかったか。

源を北条を、三浦を……。登場人物は皆が皆、家の名前を背負い、次世代に継ぐことを目指していた。義時が心を鬼にし、権力闘争を勝ち抜こうとするが、それは全て北条のため。一族のため。そこに絡む北条政子(小池栄子)、実衣(宮澤エマ)たち、両親である北条時政(坂東彌十郎)、りく(宮沢りえ)や、嫡男泰時(坂口健太郎)との駆け引きも見所だった。義時は八重(新垣結衣)ら3人の女性と結婚したこともあり本作は女性の重要人物が多く、『鎌倉殿の13人』は乱世を生き抜こうとする強い女性たちの物語でもあった。若き日から家族の間で右往左往し続けた義時の姿を思い出す。家族という最小の共同体を動かしていくことの難しさや、面倒さは今も昔も同じなのだと感じた。それと同時に家族への愛情もまた、鎌倉の世から変わらないものだとも思った。

義時がなぜ、あそこまでの修羅の道を歩まねばならなかったのか?このドラマ最大の疑問を解くキーワードは「家族」ではないか。鎌倉の美しい空を見つめ、勝手にそんな結論に行き着く。今から800年以上前、義時が見上げていた空も、こんな風にカラッと爽やかで、そしてどこか温かな色をしていたはずだ。

文・撮影=半澤則吉

参考:鎌倉観光公式ガイドHP、鶴岡八幡宮HP、『鎌倉殿の13人 メモリアルブック』(東京ニュース通信社)

1192年=いいクニ作ろう鎌倉幕府。日本史上初の武家政権である鎌倉幕府の始まりは、このようなめでたい語呂合わせで覚えこまされた。しかし近年、1185年=いいハコ作ろう鎌倉幕府、というように変わっている。というのも幕府の政治体制は、源頼朝が以仁王(もちひとおう)の令旨を受け挙兵した治承4年(1180)から整えられていった、そう見るのが妥当と考えられるようになったからだという。この年には、幕府の主要機関となる侍所(さむらいどころ)が設置された。その初代別当に和田義盛を起用。こうして頼朝を頂点とした「御恩と奉公」という武家政権の形が、少しずつではあるが定まっていき、東国中心だった頼朝の支配体制が、ついに西国にまで及んだのが文治元年(1185)。そのため、この年が鎌倉幕府成立年とされたというわけ。 そんなこむずかしい話はともかく、歴史は時代とともに解釈が変わるもの。それでも、歴史的な事件が起こったとされる“現場”に足を運ぶのは面白い。そこで好調なスタートを切った大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にあやかり、鎌倉幕府の黎明期にまつわる魅力的な現場を、少なくとも13カ所以上は巡ってみましょう!
源頼朝亡き後の鎌倉は、おどろおどろしいまでの権力闘争が繰り広げられることになってしまう。最初に狙われたのは、頼朝やその後を継いだ源頼家から絶大な信頼を得ていた梶原景時であった。続いて比企一族が粛清されると、鎌倉は北条時政の天下のような状況となる。権力欲に取り憑かれた時政の次なるターゲットは、自らの孫である源頼家だった。
北鎌倉駅に降りれば、目の前に円覚寺の緑が広がる。北鎌倉には名刹が多く、豊かな自然と相まって心が洗われる。鶴岡八幡宮に参詣したら源氏山方面に歩いてみよう。規模は小さいが趣のある寺ばかり。銭洗弁財天にお参りすれば、お金が増えるかも……。