とにかくうまい天ぷら
『鈴しげ』があるのは、JR亀有駅の北口を出て、徒歩2分ぐらいのところ。駅前に大きな商業ビルがそびえ、昔からの商店街もある南口に比べると、少し落ち着いた雰囲気。とはいえ商店なども多数あり、適度なにぎわいがある。
『鈴しげ』はダシとかえしのバランスがいいツユも魅力なのだが、なにより評判なのは天ぷらだ。定番のかき揚げから春菊、ごぼうににんじんなどの野菜類からえび天いか天あじ天と、種類も豊富。どれもカラッと揚がって、食べ口は軽やか。食後にもたれることなどないので、2個乗せも余裕だ。
この天ぷらのいいところは、なんといってもツユなじみのよさ。天ぷらをツユにひたしてかじれば、サクリとした食感を残しながらも、香り豊かなツユを十分に含んでいる。もう少しひたせば、今度は衣がトロリとなり、トロウマな天ぷらが味わえる。この日は季節の天ぷらで三葉が出ていたが、三つ葉の香りとツユの旨み、衣の甘みが一体となって、たまらなくおいしかった。
現在の『鈴しげ』は、鈴木金一郎さん、妻のしげ子さん、息子の一重さんの3人でやっている。名前を見ればお分かりかもしれないが、『鈴しげ』の「しげ」は、しげ子さんからとったもの。その「しげ」は息子の一重さんにも受け継がれているのが、おもしろい。
脱サラして始めた店
先代の金一郎さんは若い頃、ボイラーの営業マンとして働いていたが、脱サラして『鈴しげ』を始めた。今の場所は実家だったのだが、かつてはラーメン店や立ち食いそば店などに一階部分を貸していた。そこが空いてしまったので、それなら自分がと、立ち食いそばに転身したのだ。それが1975年の10月のこと。
実は開業当時、人気の天ぷらは、近所の惣菜店から買っていた。しかし、ちょっとした事情があって取引は中止に。だったら私がと、しげ子さんが店内で天ぷらを揚げ始めたのだという。そのときに使った野菜は、千葉の九十九里に持っていた別荘の畑で作ったもの。野菜はすぐに仕入れるようになったが、それまでは千葉から運んできていたらしい。
しばらくは夫婦2人で営業していた『鈴しげ』だったが、1993年、中国料理の店で働いていた一重さんが結婚を機に実家に戻り、店を手伝うようになる。以来、2014年に耐震工事のために休業したことはあったが、ずっと3人で店を続けてきた。
心地良い『鈴しげ』の空気
取材の途中、中年男性が入ってきて、そばとカレーのセットを注文する。窯の前にいた金一郎さんがそばを湯がき始め、天ぷらの準備をしていた一重さんが手を止め、カレーの器にごはんをよそい始める。この呼吸、タイミングが見ていてとても気持ちいい。
『鈴しげ』は、なんだか気持ちいい立ち食いそば店なのだ。かつてのラーメン店と立ち食いそば店をつなげて作った、広めの店内。きれいに磨き上げられた厨房。阿吽の呼吸で調理をする、金一郎さん、しげ子さん、一重さんの3人の動き。それらがとても心地良い空気を作り上げている。それはまるで、カラッときれいに揚げられた『鈴しげ』の天ぷらのようだ。胃もたれ知らず、食後の心と身体を心地よく保ってくれる。
一重さんは「毎日、変わらず同じことをやっているだけ」とは言うが、変わらずうまい、変わらず同じでいてくれることは、客の立場からすれば、とてもありがたいことなのだ。
最近は新しいお客さんが増えてきたという。「ほかはずいぶん値上げしているけど、うちは値上げしないで安いから来てくれるんですよ」という一重さん。自社物件、家族経営だからこそ、できることだろう。さすがに強烈な物価高で値上げも検討しているようだが、少しぐらい上げてもお客さんは離れないはずだ。なにしろ『鈴しげ』のそば、心地よさは唯一無二なのだから。
取材・撮影・文=本橋隆司