放課後は、きょうもあっという間に過ぎてゆく

たけひろは自宅に着くなり、ランドセルを放り投げる。家には誰もいない。学年が3つ上の兄は父方の祖父母の家だろう。前年に生まれた妹は赤ん坊で、まだ保育園にいるに違いない。

父親と母親は家から5分ほどの雑司ヶ谷方面にある肉屋を営んでいる。母親がたまに遅い昼飯を食べに、いったん家に戻ってくるときは総菜の鶏の唐揚げやコロッケをねだった。

「せっかく忙しい中帰ってきたのに、ゆっくりごはんも食べられない!」

母親はよく嘆いたが、会う時間が少ないため、たけひろは甘えたかっただけだった。冷蔵庫を開けても案の定おやつらしいものはない。以前、自分のために買っておくと約束してくれたグリコのカフェオーレがなかったとき、あたまに来て、店に電話をかけたことがある。

「カフェオーレないじゃん!」

その夜、都志子の怒りっぷりは半端なかった。それ以来、おやつない問題で店にクレーム電話をかけるのはやめた。

たけひろは何とはなしにテレビをチェックする。日本テレビは久米宏のトーク番組『おしゃれ』を流していた。久米宏のことは『ザ・ベストテン』や『ぴったしカン・カン』で好きだったが、『おしゃれ』だけはピンとこなかった。

チャンネルをガチャガチャ変えてまた日本テレビに戻る。『三枝の爆笑夫婦』だ。桂三枝は『新婚さんいらっしゃい』や『パンチDEデート』が好きだったが、これも子供のたけひろにはいまひとつ面白さがわからない。手持ち無沙汰のたけひろは仕方なく風呂の掃除を適当にやり、足を拭きながら民放各局のワイドショーを眺めていると、外から友達の声が聞こえた。

「ひーぐーちくーん、あーそーぼ!」

弾かれたように家を飛び出す。友達が自転車でやってきた。その中にはウチダタカヒロがいない。背が高くて、運動ができて、リーダー風を吹かす奴なので嫌いだった。言いなりになっている自分はもっと嫌いだった。この日はウチダは他の連中と遊んでいるらしい。ホッとしたが、一軍から漏れたようで、少し寂しかった。

自宅のとなりは自動車5台分の駐車場で、車が少ない日は、プラスチックのバットとボールで野球を楽しんだ。ホームランは向かいの家の2階の屋根で、たまに落ちてこないことがあった。

向かいの家にはフサ婆さんの妹の阿部さんと娘夫婦が暮らしていた。フサと阿部さんは新潟県寺泊から上京してきた者同士で、とても仲が良かった。娘の斎藤さんは阿部さんに似ず美人で、温泉旅行で一緒に露天風呂に入ったときはどきどきした。

小さな駐車場の野球に飽きると、自転車に乗って駄菓子屋のしらかたや、遠藤か、きくちまで行く。近所にある「まつの」は傘寿(さんじゅ)を優に過ぎたと思しき皺くちゃのお婆さんが、自宅の一角で、引き戸越しにやっていた。

「こないだスルメを足で踏んでいたって」

マルコことスギサキコウジが言う。確かに衛生面では不安な感じだった。

サカモトケンタロウやウッちゃまと話し合い、無難に遠藤で買い物した。

みんなが梅ジャムやよっちゃんを食べているのを横目に見る。神経質なたけひろはどうも苦手だった。マルカワのオレンジガムとダイケンのヨーグルトとどんどん焼きを選んだ。これだけ買っても30円。遠藤にはガチャガチャはないので、ドラえもんのバッタもんのイラストが描かれたメンコを買って遊んだ。裏に◯天あるものを「てんつき」と呼んで、子供たちはプレミアにしていた。

「ヒグ、そろそろ時間じゃない?」

時計は4時を差していた。その日は月曜日だった。習字の塾に行かなければならない。しかも月曜日は毛筆の日だ。水曜日の鉛筆書きの日より気合いを必要とされる。

他の友達とはバイバイして、スギサキと塾に向かった。

栗崎先生はダルマを思わせる、貫禄のあるお爺ちゃんだ。中庭のある石畳を抜けると、6畳ほどの部屋に長テーブルが8個並んでいる。栗崎先生には口癖があった。

「先生は字が上手かったから戦争に採られなかったんだぞ」

徴兵されたくない子供たちは、与えられたその日の課題を真面目にこなした。

終わったら文次郎とフサ婆さんの家に帰る。肉屋が休みの日曜以外は、祖父母とともに晩ごはんを食べる。煮物、煮魚の日はハズレ。「肉屋でカツでも買ってきな」という日は当たりだ。

明治生まれの文次郎はひとことも喋らない。機嫌が悪いのではない。男子たるもの無駄口は叩かないのだ。代わりにフサ婆さんがよく喋った。躾に厳しい人だった。食器の洗い物を拭いて所定の位置に戻したり、必ず手伝いをやらせていた。見たいテレビがある日は麦ご飯を早食いした。フサ婆さんの食後のお茶碗には、緑茶に浸かった入れ歯が沈んでいた。

夜の9時ともなると母親が帰ってくる。それまでには家族全員の布団を敷いて、風呂に入っておく。フサ婆さんに身体を洗ってもらいながら、たけひろは思う。

きょうもあっという間だったな。あしたは何をして遊ぼうかな。

ちなみに宿題はまったく手を付けていない。

池袋駅から歩いて5分の、肉屋の家に生まれた子供の一日は、そんな風に終わろうとしていた。永遠に続くものとばかり思っていた。

文=樋口毅宏 イラスト=サカモトトシカズ
『散歩の達人』2017年10月号より