神奈川県横浜市青葉区にある『こどもの国』は、多摩丘陵地帯の谷戸地形を生かし、牧場、乗り物、芝生や遊具といった、自然の中でのびのびと遊べる児童遊園施設です。渋谷駅から東急田園都市線に乗り、長津田駅からこどもの国線に乗り換えて約1時間で到着できるアクセスと、近隣地域から車で来園できるため、平日休日関わらず親子連れや、学校のオリエンテーションなど多くの人々でにぎわっています。

中央広場は軍用線の積み込み施設があった

こどもの国の空撮。北側から撮影。約30万坪と言われてもピンとこないが、この写真を見ると家々の大きさからどれだけ広大か分かる。この敷地が弾薬庫であった。2014年5月9日撮影。
こどもの国の空撮。北側から撮影。約30万坪と言われてもピンとこないが、この写真を見ると家々の大きさからどれだけ広大か分かる。この敷地が弾薬庫であった。2014年5月9日撮影。

さて、こどもの国へと入園します。この時点で15時を回っていたため、残された時間は僅か。閉園の16時30分までに散策します。こどもの国駅から桜並木のアクセス道が続いていて、線路の延長線上にあるので廃線跡っぽい雰囲気がします。実際、この道が軍用線でした。

入園ゲートを入ると緩い上り坂となり、地面は子供たちのらくがき広場となっている。田奈弾薬庫の時代は平坦で、線路がいくつも分岐して貨物ホームがあった。2024年4月2日撮影(特記以外は全て同日撮影)。
入園ゲートを入ると緩い上り坂となり、地面は子供たちのらくがき広場となっている。田奈弾薬庫の時代は平坦で、線路がいくつも分岐して貨物ホームがあった。2024年4月2日撮影(特記以外は全て同日撮影)。

こどもの国のゲートを過ぎると、縦長に広く長い空間が遥か先まで続いています。中央広場と呼ばれるエリアで、いったん坂道で上がった先はストンと下って庭園のような広場が目に飛び込んできます。田奈弾薬庫があったとき、この広場が軍用線の終点であり、積み込み施設の貨物ホームがありました。当時は平坦だったのですが、こどもの国の整備で起伏ある地面になったのです。

広角レンズで撮影したので狭く感じるカットだが、実際に訪れると競技場のトラックがすっぽり入るほどかなり広い。ここに弾薬積み込み用のホームと線路が並んでいた。
広角レンズで撮影したので狭く感じるカットだが、実際に訪れると競技場のトラックがすっぽり入るほどかなり広い。ここに弾薬積み込み用のホームと線路が並んでいた。

ところで、こどもの国に関してうっすらと記憶していることがあります。私が小学校4年生くらいのとき、学校のレクリエーションでこどもの国へ訪れました。班行動で巡るオリエンテーションでしたが、自由時間では鉄道好き仲間と数人で、窪地にある何かの電車廃車体を見つけ、電車ごっこをして遊んだ覚えがあるのです。床のペダルを踏むとチンチンと鳴ったから、きっと路面電車だと思うのですが……。

はて、あの電車は何だ? 軍用線支線の終端部に放置されていた玉電の車両か。いや、それらはこどもの国開園後しばらくして解体されたから違うな。ひょっとして玉電が残されていたのか。記憶違いかもしれず不安になったので、こどもの国事務局に尋ねてみました。

「廃車体ですね、たしかにありました。横浜市電の電車です。現在のミニSL乗り場あたりに設置してありましたが、老朽化でいつしか解体されました」

よく覚えていましたねと、事務局の方が親切に教えてくださいました。私の記憶違いではないことがはっきりして、まずはホッとひと息。そうか、横浜市電の廃車体でしたか。これでスッキリして、弾薬庫散策に集中できる。

自然の地形と地質によって弾薬庫となった

ふと、なんでここに弾薬庫があったのか、疑問になるかもしれません。そもそもこの場所に田奈弾薬庫が選ばれたのは、地表付近まで粘着性の高い硬い岩盤層があったからです。硬い岩盤は落盤の恐れが少なく、万が一爆発事故が発生しても被害が最小限にとどめられます。それに多摩丘陵の入り組んだ谷戸地形は、防空の観点においても発見されにくく優位でした。

終戦2年後に米軍が撮影した田奈弾薬庫の全景。底辺が長津田駅方向である。入り組んだ谷戸地形の至るところに弾薬製造関連施設や弾薬庫の擁壁がある。北側部分は現在白鳥湖となって水没している。 国土地理院国土変遷アーカイブ、地図・空中写真閲覧サービス 1948年2月25日米軍撮影、コース:R1052 写真番号146、市区町村名:横浜市青葉区。 https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=198676。
終戦2年後に米軍が撮影した田奈弾薬庫の全景。底辺が長津田駅方向である。入り組んだ谷戸地形の至るところに弾薬製造関連施設や弾薬庫の擁壁がある。北側部分は現在白鳥湖となって水没している。 国土地理院国土変遷アーカイブ、地図・空中写真閲覧サービス 1948年2月25日米軍撮影、コース:R1052 写真番号146、市区町村名:横浜市青葉区。 https://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=198676。

田奈弾薬庫は通称で、正式には「東京陸軍補給廠田奈部隊填薬所」と呼称します。1941年の部隊発足後、火薬を詰める火工場、火薬を溶かして弾頭に詰める溶填場、穿孔場、洞窟状の弾薬貯蔵庫など、砲弾を製造保管する施設が整備され、兵器学校の分校も存在しました。野戦砲、高射砲、地雷、手榴弾の製造が占めていたとのことです。

弾薬庫付近をクローズアップして空撮した。第2トンネル付近の弾薬庫で、コの字型の擁壁が弾薬庫の扉である。2014年5月9日撮影。
弾薬庫付近をクローズアップして空撮した。第2トンネル付近の弾薬庫で、コの字型の擁壁が弾薬庫の扉である。2014年5月9日撮影。

米軍撮影空中写真を見ると、入り組んだ谷戸地形に平屋建てと思しき建物が点在し、ところどころ壕のような形状の施設があり、それが弾薬貯蔵庫です。園内の北側は白鳥湖という人工の湖になっていますが、そこも弾薬庫がありました。湖として整備した際に水没したそうです。弾薬庫は合計33ヶ所あり、道路で結ばれていました。現在確認できるのは十数箇所となっています。

田奈弾薬庫は米軍の攻撃には晒されなかったが死傷事故はいくつか発生した。住吉神社付近では、学徒動員の中学生(旧制中学)が乗車したトラックが奈良川へ横転し、6名の尊い命が奪われた。慰霊碑が建立されている。
田奈弾薬庫は米軍の攻撃には晒されなかったが死傷事故はいくつか発生した。住吉神社付近では、学徒動員の中学生(旧制中学)が乗車したトラックが奈良川へ横転し、6名の尊い命が奪われた。慰霊碑が建立されている。

親子連れが歩く道路とトンネルが弾薬輸送の道だった

園内は平日にも関わらず、大変多くの親子連れで賑わっています。春になり、気温が上がってピクニック日和となったからでしょうか。わいわいと笑顔の絶えない人々が歩いてくる道を進みます。

すると、目の前に鉄道の複線幅ほどのトンネルが口を開けている。和やかな空気の中に、コンクリート製の重厚なトンネルポータルがドシっと構えています。そのギャップに一瞬たじろいでしまいました。第1トンネルと呼び、田奈弾薬庫の時代から残っています。鉄道ではなく道路用トンネルで、弾薬輸送のために整備された道路を通すため、起伏ある地形を穿ち、トンネルがつくられました。

園内の周遊道路は田奈弾薬庫の道路の一部を活用した。中央広場の近くには第1トンネルが口をあけている。左手には広場があり、田奈部隊の司令部があった。
園内の周遊道路は田奈弾薬庫の道路の一部を活用した。中央広場の近くには第1トンネルが口をあけている。左手には広場があり、田奈部隊の司令部があった。
第1トンネル手前の雑木林を見ると、斜面を埋めた痕跡があった。壕でもあったのだろうか。
第1トンネル手前の雑木林を見ると、斜面を埋めた痕跡があった。壕でもあったのだろうか。

トンネル内は照明がなく真っ暗。子供たちはその状況も楽しみ、歓声が反響してにぎやかです。私も子供のときはキャッキャとはしゃいでいただろうな。トンネルの先は乗り物広場で、この一帯には平屋建ての建物が並んでいました。砲弾の製造に関わる施設だったと考えられますが、もちろんいまは跡形もありません。道路を進むと5叉路が見えてきます。右手には、軍用線支線の終点であった臨時駐車場が見えます。

いよいよ現れる弾薬庫は園内に十数箇所ある

五叉路から左斜めに下った道の先を歩きます。すると、丘陵の斜面に沿って弾薬庫が残されていました。右手は「雪印こどもの国牧場」という牧場施設で、左を向くと斜面にコンクリートの擁壁で覆われた二カ所の扉が目に入ってきました。開放的な場所で突如現れる弾薬庫。牧場の和気あいあいとした光景とは真逆で、重々しいコンクリート構造物があります。

牧場の真向いに弾薬庫の扉があった。堅牢なコンクリートの擁壁が2カ所あり、内部で繋がっている構造だ。園内の弾薬庫はほぼ同じ構造である。大人が弾薬庫を覗いていた。扉の高さは一般的な倉庫の扉と同じくらいである。
牧場の真向いに弾薬庫の扉があった。堅牢なコンクリートの擁壁が2カ所あり、内部で繋がっている構造だ。園内の弾薬庫はほぼ同じ構造である。大人が弾薬庫を覗いていた。扉の高さは一般的な倉庫の扉と同じくらいである。

目の前で思う存分遊ぶ子供たちは、弾薬庫の扉が視界に入ってこなさそう。とはいっても、何も知らなければ園内のバックヤード施設と思うでしょう。無機質なコンクリート擁壁と鉄扉しかないのですから。

弾薬庫は周遊道路に沿って存在する。道路は周遊SL風バスが走ってくることがある。
弾薬庫は周遊道路に沿って存在する。道路は周遊SL風バスが走ってくることがある。

弾薬庫の扉は厳重に閉まり、もう片方の扉と内部で繋がっています。扉の前は不自然な段差があって、プラットホームのような石垣が続いています。支線の終点からここまでそんなに距離は無く、ひょっとして線路が伸びていたのか、あるいはトラックの積み込み用だったのか、この遺構だけでは想像の域から脱せませんが、いろいろと考えます。

弾薬庫の存在を知らなければ、ちょっと不気味なバックヤードのドアである。
弾薬庫の存在を知らなければ、ちょっと不気味なバックヤードのドアである。
不気味と感じさせているのはおそらく格子状のランダムな小窓ではないか。目のようにも見えてしまった。
不気味と感じさせているのはおそらく格子状のランダムな小窓ではないか。目のようにも見えてしまった。
夕焼けの淡い太陽に包まれた丘陵に佇む弾薬庫。上部はサイクリングロードとなっている。
夕焼けの淡い太陽に包まれた丘陵に佇む弾薬庫。上部はサイクリングロードとなっている。

それはそうと、弾薬庫の周りは遊ぶ子供たちは多くても扉の存在に興味を示すのは大人で、コンクリート構造物をじっと見つめる人はそうそういません。しかし、活発そうな男子が一人近づいてきて

「何見ているんですか?」

と声をかけてきたのにはビックリしました。今日び、知らない人には声掛けをしない世間の空気なのに珍しいなと思いながらも、私が扉の前でしゃがんで撮影しているのが怪しく見えたのかもしれません。

「中に爆弾が入っていたんだよ」と答えました。ああ、爆弾は大袈裟か。しかし、砲弾と言っても理解できるかなと思ったもので……。

「爆弾!? ええ、すげぇっっ!」 驚かせてしまったか。

「あ、今はもう爆弾なんてないよ。昔の戦争中の話。ここは戦争のとき爆弾とか保管していたんだよ」

「へぇ〜、戦争のときか」でも興味を持ってくれたようで、仲間に伝えています。「これは1945年前、80年くらい前の戦争のものだって。じぃじがまだ生まれる前だよ」

じぃじが生まれる前……そうか、いまの子どもの祖父母はもう戦後世代なのか。月日の長さを感じさせます。昭和は遠くになりけり……か。

支線の終点部(臨時駐車場)と上で紹介した弾薬庫の位置関係。この距離感ならば線路が弾薬庫前まで延びていても不思議ではない。が、米軍撮影の空中写真では確認しづらかった。2014年5月9日撮影。
支線の終点部(臨時駐車場)と上で紹介した弾薬庫の位置関係。この距離感ならば線路が弾薬庫前まで延びていても不思議ではない。が、米軍撮影の空中写真では確認しづらかった。2014年5月9日撮影。

園内周遊道路に沿って点在する弾薬庫

弾薬庫は園内の周遊道路沿いに点在しています。さりげなく存在するので、「あ、ここも。そこにもある」と、宝探しでもするかのように、次々と弾薬庫をチェックしていきます。扉の形状は場所によって様々で、擁壁が高い箇所もあれば扉が奥まっているパターンもある。その地形によって変化しているのかもしれません。

周遊道路に沿って点在する弾薬庫。トラックへ積み込みやすいよう段差がある。
周遊道路に沿って点在する弾薬庫。トラックへ積み込みやすいよう段差がある。
牧場付近の弾薬庫は倉庫となっていた。
牧場付近の弾薬庫は倉庫となっていた。
1本外側にある外周道路にも弾薬庫が残っている。この場所はあまり人が歩かないのか、ひっそりとしていた。擁壁も石積みである。
1本外側にある外周道路にも弾薬庫が残っている。この場所はあまり人が歩かないのか、ひっそりとしていた。擁壁も石積みである。

戦後80年が経過し、扉の周囲も樹木が鬱蒼と茂り、弾薬庫内部を再利用していなければ放置状態となって、やがて自然の中へ没してしまいそうです。また、弾薬庫は十数箇所のみ残存しているという割にはあちらこちらに存在し、歩いて巡っていくうちに、どれだけの砲弾を製造し保管してきたか、その規模の大きさがじわじわと伝わってきます。

周遊道路にはもう一ヶ所第2トンネルがある。この内部も真っ暗だ。
周遊道路にはもう一ヶ所第2トンネルがある。この内部も真っ暗だ。
ある弾薬庫は南浦諸島の戦場でのボーイスカウトにまつわる碑『無名戦士の記念碑』となった。負傷した米兵を日本兵が助け「君を刺そうとした時、君はぼくに三指の礼をした。ぼくもボーイスカウトだった。ボーイスカウトは兄弟だ。君もぼくも兄弟だ。それに戦闘力を失ったものを殺すことは許されない。傷には包帯をしておいたよ。グッドラック」というエピソードがあった。
ある弾薬庫は南浦諸島の戦場でのボーイスカウトにまつわる碑『無名戦士の記念碑』となった。負傷した米兵を日本兵が助け「君を刺そうとした時、君はぼくに三指の礼をした。ぼくもボーイスカウトだった。ボーイスカウトは兄弟だ。君もぼくも兄弟だ。それに戦闘力を失ったものを殺すことは許されない。傷には包帯をしておいたよ。グッドラック」というエピソードがあった。
中央広場の近くには田奈弾薬庫の遺構と思しきコンクリートの構造物が斜面から露出していた。
中央広場の近くには田奈弾薬庫の遺構と思しきコンクリートの構造物が斜面から露出していた。

園内には通気口など弾薬庫以外の遺構もあって、じっくりと観察するには午前中からのほうがよさそうです。まもなく閉園時間。田奈弾薬庫の遺構探しはザックリとでしたが、これにて終了します。

これからの季節は暖かくなって(いや、すぐ暑くなるか)気持ち良いので、ピクニックがてらに園内を散策してみるのも楽しいでしょう。

<弾薬庫点描>

全ての弾薬庫は網羅していないが、周遊道路に沿って巡った数々を紹介する。

上部に通気口が見える。
上部に通気口が見える。
健康広場の遊具と。
健康広場の遊具と。
第2トンネル手前の弾薬庫。
第2トンネル手前の弾薬庫。
もうじき桜が満開となる。
もうじき桜が満開となる。
桜越しに。
桜越しに。
弾薬庫の前に段差がないのは意図的か、後年に撤去されたのか。
弾薬庫の前に段差がないのは意図的か、後年に撤去されたのか。
「せせらぎ」エリアの前にも弾薬庫。
「せせらぎ」エリアの前にも弾薬庫。
弾薬庫と自販機。
弾薬庫と自販機。
こちらの弾薬庫は奥まっており、擁壁も長細かった。
こちらの弾薬庫は奥まっており、擁壁も長細かった。

取材・文・撮影=吉永陽一