中央広場は軍用線の積み込み施設があった
さて、こどもの国へと入園します。この時点で15時を回っていたため、残された時間は僅か。閉園の16時30分までに散策します。こどもの国駅から桜並木のアクセス道が続いていて、線路の延長線上にあるので廃線跡っぽい雰囲気がします。実際、この道が軍用線でした。
こどもの国のゲートを過ぎると、縦長に広く長い空間が遥か先まで続いています。中央広場と呼ばれるエリアで、いったん坂道で上がった先はストンと下って庭園のような広場が目に飛び込んできます。田奈弾薬庫があったとき、この広場が軍用線の終点であり、積み込み施設の貨物ホームがありました。当時は平坦だったのですが、こどもの国の整備で起伏ある地面になったのです。
ところで、こどもの国に関してうっすらと記憶していることがあります。私が小学校4年生くらいのとき、学校のレクリエーションでこどもの国へ訪れました。班行動で巡るオリエンテーションでしたが、自由時間では鉄道好き仲間と数人で、窪地にある何かの電車廃車体を見つけ、電車ごっこをして遊んだ覚えがあるのです。床のペダルを踏むとチンチンと鳴ったから、きっと路面電車だと思うのですが……。
はて、あの電車は何だ? 軍用線支線の終端部に放置されていた玉電の車両か。いや、それらはこどもの国開園後しばらくして解体されたから違うな。ひょっとして玉電が残されていたのか。記憶違いかもしれず不安になったので、こどもの国事務局に尋ねてみました。
「廃車体ですね、たしかにありました。横浜市電の電車です。現在のミニSL乗り場あたりに設置してありましたが、老朽化でいつしか解体されました」
よく覚えていましたねと、事務局の方が親切に教えてくださいました。私の記憶違いではないことがはっきりして、まずはホッとひと息。そうか、横浜市電の廃車体でしたか。これでスッキリして、弾薬庫散策に集中できる。
自然の地形と地質によって弾薬庫となった
ふと、なんでここに弾薬庫があったのか、疑問になるかもしれません。そもそもこの場所に田奈弾薬庫が選ばれたのは、地表付近まで粘着性の高い硬い岩盤層があったからです。硬い岩盤は落盤の恐れが少なく、万が一爆発事故が発生しても被害が最小限にとどめられます。それに多摩丘陵の入り組んだ谷戸地形は、防空の観点においても発見されにくく優位でした。
田奈弾薬庫は通称で、正式には「東京陸軍補給廠田奈部隊填薬所」と呼称します。1941年の部隊発足後、火薬を詰める火工場、火薬を溶かして弾頭に詰める溶填場、穿孔場、洞窟状の弾薬貯蔵庫など、砲弾を製造保管する施設が整備され、兵器学校の分校も存在しました。野戦砲、高射砲、地雷、手榴弾の製造が占めていたとのことです。
米軍撮影空中写真を見ると、入り組んだ谷戸地形に平屋建てと思しき建物が点在し、ところどころ壕のような形状の施設があり、それが弾薬貯蔵庫です。園内の北側は白鳥湖という人工の湖になっていますが、そこも弾薬庫がありました。湖として整備した際に水没したそうです。弾薬庫は合計33ヶ所あり、道路で結ばれていました。現在確認できるのは十数箇所となっています。
親子連れが歩く道路とトンネルが弾薬輸送の道だった
園内は平日にも関わらず、大変多くの親子連れで賑わっています。春になり、気温が上がってピクニック日和となったからでしょうか。わいわいと笑顔の絶えない人々が歩いてくる道を進みます。
すると、目の前に鉄道の複線幅ほどのトンネルが口を開けている。和やかな空気の中に、コンクリート製の重厚なトンネルポータルがドシっと構えています。そのギャップに一瞬たじろいでしまいました。第1トンネルと呼び、田奈弾薬庫の時代から残っています。鉄道ではなく道路用トンネルで、弾薬輸送のために整備された道路を通すため、起伏ある地形を穿ち、トンネルがつくられました。
トンネル内は照明がなく真っ暗。子供たちはその状況も楽しみ、歓声が反響してにぎやかです。私も子供のときはキャッキャとはしゃいでいただろうな。トンネルの先は乗り物広場で、この一帯には平屋建ての建物が並んでいました。砲弾の製造に関わる施設だったと考えられますが、もちろんいまは跡形もありません。道路を進むと5叉路が見えてきます。右手には、軍用線支線の終点であった臨時駐車場が見えます。
いよいよ現れる弾薬庫は園内に十数箇所ある
五叉路から左斜めに下った道の先を歩きます。すると、丘陵の斜面に沿って弾薬庫が残されていました。右手は「雪印こどもの国牧場」という牧場施設で、左を向くと斜面にコンクリートの擁壁で覆われた二カ所の扉が目に入ってきました。開放的な場所で突如現れる弾薬庫。牧場の和気あいあいとした光景とは真逆で、重々しいコンクリート構造物があります。
目の前で思う存分遊ぶ子供たちは、弾薬庫の扉が視界に入ってこなさそう。とはいっても、何も知らなければ園内のバックヤード施設と思うでしょう。無機質なコンクリート擁壁と鉄扉しかないのですから。
弾薬庫の扉は厳重に閉まり、もう片方の扉と内部で繋がっています。扉の前は不自然な段差があって、プラットホームのような石垣が続いています。支線の終点からここまでそんなに距離は無く、ひょっとして線路が伸びていたのか、あるいはトラックの積み込み用だったのか、この遺構だけでは想像の域から脱せませんが、いろいろと考えます。
それはそうと、弾薬庫の周りは遊ぶ子供たちは多くても扉の存在に興味を示すのは大人で、コンクリート構造物をじっと見つめる人はそうそういません。しかし、活発そうな男子が一人近づいてきて
「何見ているんですか?」
と声をかけてきたのにはビックリしました。今日び、知らない人には声掛けをしない世間の空気なのに珍しいなと思いながらも、私が扉の前でしゃがんで撮影しているのが怪しく見えたのかもしれません。
「中に爆弾が入っていたんだよ」と答えました。ああ、爆弾は大袈裟か。しかし、砲弾と言っても理解できるかなと思ったもので……。
「爆弾!? ええ、すげぇっっ!」 驚かせてしまったか。
「あ、今はもう爆弾なんてないよ。昔の戦争中の話。ここは戦争のとき爆弾とか保管していたんだよ」
「へぇ〜、戦争のときか」でも興味を持ってくれたようで、仲間に伝えています。「これは1945年前、80年くらい前の戦争のものだって。じぃじがまだ生まれる前だよ」
じぃじが生まれる前……そうか、いまの子どもの祖父母はもう戦後世代なのか。月日の長さを感じさせます。昭和は遠くになりけり……か。
園内周遊道路に沿って点在する弾薬庫
弾薬庫は園内の周遊道路沿いに点在しています。さりげなく存在するので、「あ、ここも。そこにもある」と、宝探しでもするかのように、次々と弾薬庫をチェックしていきます。扉の形状は場所によって様々で、擁壁が高い箇所もあれば扉が奥まっているパターンもある。その地形によって変化しているのかもしれません。
戦後80年が経過し、扉の周囲も樹木が鬱蒼と茂り、弾薬庫内部を再利用していなければ放置状態となって、やがて自然の中へ没してしまいそうです。また、弾薬庫は十数箇所のみ残存しているという割にはあちらこちらに存在し、歩いて巡っていくうちに、どれだけの砲弾を製造し保管してきたか、その規模の大きさがじわじわと伝わってきます。
園内には通気口など弾薬庫以外の遺構もあって、じっくりと観察するには午前中からのほうがよさそうです。まもなく閉園時間。田奈弾薬庫の遺構探しはザックリとでしたが、これにて終了します。
これからの季節は暖かくなって(いや、すぐ暑くなるか)気持ち良いので、ピクニックがてらに園内を散策してみるのも楽しいでしょう。
<弾薬庫点描>
全ての弾薬庫は網羅していないが、周遊道路に沿って巡った数々を紹介する。
取材・文・撮影=吉永陽一