和菓子の教師が開いた『菓子遍路一哲』
東武スカイツリーライン東向島駅の改札を背に、右手に数歩進めば東武鉄道の車両や資料を展示する東武博物館が、左手に数歩進めば和菓子店『菓子遍路一哲』がある。
店主の酒井哲治さんは製菓専門学校の元教員だ。和菓子とパンの教師として20年間勤めた後、2009年に独立して店を構えた。
店名は酒井さんの出身地である四国の巡礼者、お遍路さんにちなむ。「お客様に喜ばれる味に巡り合えるよう一からはじめる」として、自分の名の一文字も入れて『菓子遍路一哲』とした。
お邪魔したときは、業界誌の依頼で考案したという新作のカステラがオーブンから出てきたところで、店内に甘い香りが漂っていた。このほか、店頭には10種類のどら焼きや上生菓子、焼き菓子、羊羹、蒸し菓子などが所狭しと並ぶ。中でも人気が高いのは、寺島ナスを使った和菓子だ。
江戸野菜の寺島ナスが甘い和菓子に!
店から西へ徒歩6分、都立庭園・向島百花園を過ぎてさらに3分ほど北西に歩くと、墨田区登録無形民俗文化財の隅田川七福神の一、寿老神(じゅろうじん)を祀る白鬚(しらひげ)神社に着く。
周辺は、かつて寺島村と呼ばれた農村で、寺島ナスと呼ばれるナスの産地だったという。関東大震災後に生産が途絶えたものの、2009年に復活した。
東向島駅前商店街の副会長も務める酒井さん。街の活性化につながればと寺島ナスの和菓子を考案したそうだ。
果物のような爽やかな風味が特徴という寺島ナスを使った和菓子のうち、一番人気は最中「なすがままに」。小ぶりな寺島ナスをかたどったコロンとした形がかわいい。
裏ごしした寺島ナスの甘露煮を加えた小倉餡からは、ほんのりとナスの風味と酸味が感じられる。
寺島ナスの羊羹を黄味餡に混ぜた「玉の井の月」もここでしか食べられない。どらやきに似ているけれど、薄焼きの皮には膨張剤が入らず、しっかりとした食感だ。
皮も餡も甘さが強めでコクがある。餡にちりばめられた寺島ナスの羊羹の、果実のようなほのかな甘酸っぱさが後味を引き締める。
どちらもナスの風味は淡いので、野菜菓子ははじめてという人も違和感なく楽しめそうだ。
永井荷風の足跡を辿る。
東向島駅に“旧玉ノ井”と併記されているように、このあたりにはかつて私娼街の玉の井があった。永井荷風の小説『濹東綺譚(ぼくとうきたん)』や滝田ゆうの漫画『寺島町奇譚(てらじまちょうきたん)』の舞台としても知られる。
『菓子遍路一哲』で食べた三日月の形をした和菓子「玉の井の月」は、永井荷風の作品にインスピレーションを得たものだそうだ。
店から北東へ徒歩9分、いろは通りと向島警察署墨田3丁目交番が交差する道を入ったところある願満稲荷社には、荷風が昭和11年(1936)に書いた玉の井の地図が掲示されている。持参した『濹東綺譚』と照らし合わせてみる。地図の文字が薄れて見づらいけれど、小説の中でラビラント(迷宮)と書かれている第一部、第二部、第三部のそれぞれのエリアがしっかり載っている。
このあたりは細い道が多く、ここにたどり着くまでずいぶん迷った。入り組んだ路地が当時の街の様子を思わせる。
季節の移ろいを感じてもらおうと、四季折々に様々なお菓子をつくる酒井さん。『菓子遍路一哲』にはたくさんの和菓子が並ぶけれど、寺島ナスの羊羹を刻み込んだ「玉の井の月」には、酒井さんの、街への想いが特別たっぷり詰まっているようだ。
取材・文・撮影=原亜樹子(菓子文化研究家)