母の夢を受け継いで、ベーカリー開業
『PEARL BAKERY』があるのは人形町通りから1本入った横丁だ。1階奥のキッチンでパンを焼いて販売している。2階は、パンはもちろんクリームソーダやパフェも食べられるカフェスペースだ。
約3メートルの間口で奥に長い“鰻の寝床式”の一軒家は、終戦後程なく建てられた。以前は焼肉店だったというが、その痕跡はまるでない。
人材紹介業を本業としているオーナー、大澤藍さんが畑違いのベーカリーカフェを開いたのは、若くして急逝した母の存在がある。
「店の名前を『PEARL BAKERY』にしたのは母の名前からです。真珠という名前なんです。母は子育てがひと段落してからパン作りを習って、仲間とパン教室で教えるまでになりました。余裕ができたらいつかパン屋さんを開きたいとも言っていたんですよ。倒れる前日には一緒に出かけるほど元気だったのに、意識が戻らないまま亡くなったこともあって、その言葉がとても気になっていました」
2020年のコロナ禍で社会に変化が訪れ、本業の営業活動で日々飛び回っていた大澤さんにも思いがけず時間ができた。それをきっかけに、生前の母が叶えられなかったパン屋を開こうと決意。大澤さんが店作りをするにあたって最初に考えたのは、明るくポジティブで、温かく、いつも味方になってくれた母のイメージだ。忙しい毎日を過ごす人が、1人でも入りやすく、寄り道してホッとできる、第2の家のような居心地のいい空間作りだった。
特に2階のカフェスペースはその気持ちが形になっている。角地のため窓が大きく、光がたくさん入ることを最大限活かしたインテリアになっている。電源コンセント付きのカウンター席も設けられていてランチタイムや休憩に、近隣のビジネスパーソンがパソコンを持って訪れる姿も見られる。
床の一部と階段を撤去。築70年以上の一軒家を大胆にリノベーション
「日頃、水天宮のオフィスに自転車で通っていますが、この辺りは気軽に寄れるカフェが多くないのが気になっていました。近くには新しいマンションも増えているし、地域で働く人やお住まいの方はもちろん、観光でいらっしゃった方や水天宮のお参り帰りに妊婦さんがご家族で立ち寄ってくださることもあります」と大澤さん。
オープン前に行ったリノベーションでは、ほぼ骨組みだけになるまで以前のものを取り除いた。店の入り口上部は、2階の床を抜いて吹き抜けにして開放感のある空間に。お年寄りや妊娠中の女性も上がりやすいよう、急勾配だった階段を撤去して付け替えたという念の入れようだ。ところどころに古い柱が残っていなければ、古民家カフェと言われても、ピンとこないかもしれない。
「パンがおいしいことも大切ですが、居心地が良くて、接客も気持ちいい。この3つが揃っていると、また来たいと思ってもらえるんじゃないかと思っています」
人形町らしいパンとロマンチックでかわいいメニューが混在
学生時代のアルバイトで飲食店勤務の経験があったが、パン屋となると職人のツテもなかった。試行錯誤して開店までに40人以上のパン職人に会って、一緒に店を盛り上げてくれる人を見つけることができた。
すぐそばにある甘酒横丁にちなんで開発した甘酒食パンは、試行錯誤が実った自慢のパンだ。水の代わりに甘酒を使って練り上げ、はちみつも加えてほんのり甘く仕上げている。複雑かつ芳醇な香りで、そのままだともっちり、トーストするとさっくりとした食感になる。他にも安産祈願などと焼印を押したあんぱんなど、人形町の地域の特製を意識したパンも用意。新しいものと古いものの融合も店のテーマに掲げていることから、人形町のお土産としても利用してもらえることを考えた。
アイスクリームが好きな大澤さんが、メニューに取り入れたかったソフトクリーム。いくつも取り寄せたサンプルをスタッフと一緒に試食を繰り返して選んだのは濃厚な北海道産のものだ。カフェメニューでは、ソフトクリームとさくらんぼをのせた3種類のクリームソーダが白い店内に映える。ラムネと組み合わせて、空のクリームソーダ、レモンを入れて月のクリームソーダ、カルピス風味は雲のクリームソーダと、スタッフの意見を取り入れた懐かしくてロマンチックなメニューが出来上がった。
1階で買ったパンを2階で食べるときは、温かみのあるお皿に盛り付けて出してくれるのも気が利いている。第2の家のように時間を過ごしてほしいという気持ちの現れだろう。
江戸から続く下町の良さを色濃く残す人形町で、気取りなく立ち寄れるベーカリーカフェ。新しい休憩スポットとして根付いていきそうだ。
取材・撮影・文=野崎さおり