お祭りの数日前から氏子の代表者50人ほどが集まって境内の掃除や神輿の飾り付けを手伝ってくれる。そのほとんどは60〜80代の男性である。父がさまざまな指示を出している中、私は所在ない思いで人の間を行き来していた。神社の代表者の息子として、どんな顔で年配者たちと接すればいいのかいまだによくわかっていない。

氏子さんたちの協力もあり、祭りは無事終わった。祭りの後は神社の会館に氏子代表が集まり、直会(なおらい)という打ち上げ的な宴を開くのが恒例だ。何十人ものよく知らない氏子さんたちに混じる時間をなるべく短縮したい私は、こっそり家に帰りひとりで休んでいると「お前何しとんじゃ、はよこんかい」とすぐに父から電話がかかってきた。仕方なく会館に向かい、しれっと席に着こうとするも「まず最初に総代さんたちにお礼言いにいかんかい」とまた叱りつけられた。

総代さんとは氏子の総代表3人のことだ。それぞれ工場や会社を一から作って身を立てた地元の名士的な人たちである。経営者としてのシビアな目線で私のことを見ていそうで、できれば避けて通りたい面々だが、命じられてしまった手前無視はできない。

宴の喧騒の中、酒を酌み交わしている総代さん3人の間に入って畳に手を突き「この度はご協力ありがとうございました。おかげで無事に祭りを終えることができました」とそれらしいセリフを吐いた。ひとりは笑顔で「おう、お疲れ」と返してくれたが、後のふたりは黙って苦々しい顔をしている。普通の氏子さんなら「よう東京から手伝いに帰ってきてくれたなあ」と優しい言葉のひとつもかけてくれそうな場面なのに。

「お前のう……」苦々しい顔のひとりが切り出した。嫌な予感がした。笑顔の総代さんが「まあまあ、ええがな」と制止するのを振り切り、「お前、そのままでええと思っとるんか?」とその人は言った。

何と返せばいいかわからず「ええと、それはどういう……」と、へどもどしている私に、「あんな歳の親父置いてよう東京なんか行ってられるなあ、と言うとんじゃ」と問題の核心に切り込んできた。

私の改善するべき点

神社の跡継ぎ問題についてはこれまでいろいろな氏子さんにやんわり指摘されるたびのらりくらりと躱(かわ)していたが、ここまではっきり言われたのは初めてだ。確かに父親は今年(2024年)で80歳になる。足も腰も頭もシャンとしているが耳は遠くなった。人によっては10年も前に跡目を継いでいてもおかしくはない。もしかしたらそっちの方が普通なのかもしれない。しかし神主の息子に生まれたとはいえ自分には自分の人生があるし、家業へ身を捧げ不満足な一生を送ったところで誰かが責任を取ってくれるわけでもない。これでも一応家業とのバランスは考えているつもりだし、総代さんが見ていないところであれこれ手伝ったりもしているのだが……そんな自分の認識は甘いのだろうか。

優しい方の総代さんが場を収めるように私へ言った。「まあまあ、これからお前の態度が改善されていけば周りの見方も少しずつ変わってくると思うから」。

何やら裏で皆からいろいろと言われてそうな口ぶりだった。「改善というのは具体的にどういう部分のことでしょうか……」とおそるおそる尋ねると、3人は目配せをし、多方面からの苦情を代弁するような顔で「まずは、挨拶をちゃんとすることからやな」と告げた。

挨拶。36歳にもなって挨拶のことで説教されるなんて。情けなさすぎて眩暈(めまい)がした。先ほどからの総代さんの不機嫌さ、また後継問題への攻撃的な言及も、全て私の挨拶に対する苛立ちから来ていたのだろうか。いや、私だって普段から最低限の挨拶を心がけてはいる。だが、最低限の挨拶はするが必要以上の挨拶は避けようとしてしまっている心性は確かに認めざるを得ない。たとえば1対1で前から来た人と通り過ぎるようなわかりやすい場面では挨拶をしても、5人くらいの集団で話し込んでいるような応用的な場面では「邪魔になってもいけないから」と足音をひそめ通り過ぎようとする。一度挨拶した氏子さんに再び挨拶をしてしまい怪訝な顔をされたこともあった。大勢の年配者の中にあってひとりだけ若い私は向こうからは区別しやすいだろうが、こちらは何十人もの同年輩の氏子さんたちの顔を見分けられないこともあるのだ。そんな事情を告げたところで言い訳としか受け取られないだろう。「これからはちゃんと挨拶するようにします」と反省した素振りを見せると、「まあお前も一杯飲んだらどや」と総代さんたちの態度がようやく軟化した。

何とかその場は凌(しの)いだ。しかし「あの神主の息子はまともに挨拶もできん」といろんな氏子さんたちに噂されているであろう問題は消えていない。私は知らないうちにそんなに低評価を受けていたのか。バイトだったらもうこの時点でバックレる理由として十分だが、さすがに家業をバックレるわけにもいかないだろう。現実から目を背けたくなった私はとりあえずトイレへ行くフリをして会館を抜け出し、タバコを吸った。

※写真と本文とは直接関係ありません。
※写真と本文とは直接関係ありません。

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子 協力=オギリマサホ
『散歩の達人』2024年3月号より

以前、ネットの掲示板を見ていたら「中高時代の部活について語ろう」というスレッドがあった。それを見て驚いたのは、昔やっていた部活を「楽しかった思い出」として捉えている人が意外に多いことだ。なんだかんだ言っても今思えば楽しかった、という話ではなく、たとえば雨で部活が休みになったら落胆するほど当時から部活を毎日楽しみにしていたらしい。私には部活を楽しみに感じた経験がない。休みになればただただうれしかったし、そのままずっと休みになったとしても喜んで受け入れていただろう。そんなに嫌ならやめればいいじゃないかと思われるかもしれないが、そう簡単に割り切ることもできない。つらいのを我慢していれば時々は「続けていてよかったな」と思うことがあるんじゃないかと期待していたし、実際に何度かはあった。私にとって物事の継続とは我慢を強いられることであり、たまに楽しい出来事はあるにしろ基本的には苦しいのが当たり前なのだ。ただ、「これは続けていても楽しい」と思える物事に出会えるまでは、苦しくなったらすぐにやめて次を探すのもひとつの手だと今は思う。
知人の飲み会で一度だけ会った文芸誌の編集者から連絡があり打ち合わせをすることになった。コーヒーをすすりながら「最近は何やってるんですか」「実家にはよく帰るんですか」と世間話のような質問に答えていたら数十分が過ぎていた。相手は私に仕事を頼むつもりだったのに、私の返答のレベルが低すぎたせいで「やっぱこいつダメだ」と見切られてしまったんじゃないか。そんな不安がよぎり始めた頃、編集者は突然「吉田さん、小説を書いてみませんか」と言った。私は虛をつかれたような顔をして「小説かあ……いつか書いてみたいとは思ってたんですけどね。でも自分に書けるかどうか」などとゴニョゴニョ言いながら、顔がニヤつきそうになるのを必死にこらえていた。本当は打ち合わせを持ちかけられた時点で小説の執筆を依頼されることに期待していたのだ。「まあ……なんとか頑張ってみます」と弱気な返事をしつつ、胸の内は小説執筆への熱い思いで滾(たぎ)っていた。
たびたびいろんなところで言っているが、私の実家は香川県にある神社だ。毎年夏や秋はお祭りが重なって私もちょくちょく手伝いに帰るが、一年で最も忙しいのは、なんといっても年末年始である。