同級生の「つーち」とは保育園から中学まで一緒で、同じグループでよく遊んでいた時期もある。若干なめられていた私は、エレキギターを買うための貯金箱の金をパクられたりもした。後日家に押しかけ、自分がどれだけギターが欲しくて頑張ってお金を貯めていたのかを感情的に訴えかけると、さすがに悪いと思ったのか、数週間後に金を返してくれた。根っからの悪いやつではなかった。
友達と連れ立ってつーちの事故現場へ行くと、花束やタバコがいくつも供えられていた。どうやら本当に死んでしまったらしい。
その友人2人と私は後日、近所のコンビニの裏に呼び出された。お供え物の缶ジュースに吸い殻を捨てたというあらぬ疑いをかけられ、つーちがツルんでいたヤンキーの先輩10人くらいに囲まれボコボコにされそうになったのだ。必死に否定しても、正義感でテンションの上がったヤンキーに話は通じない。もうダメか、と思ったその時、噂を聞きつけやって来たヤンキーの親が「そんなことしてもあの子は浮かばれんよ!」と割って入ってくれて、なんとか暴行未遂に終わった。
私たちは恐怖でブルブル震えながら、ヤンキーたちへの憎しみを募らせた。彼らはきっと、つーちが死んだ責任の一端が自分たちにある負い目を感じ、私たちを悪者に仕立てることで不安を解消しようとしているのだ。どうせつーちのことなんかすぐに忘れて、2、3年もすれば酒を飲みながら美談のように語るのだろう。
いつの間にか1年が経ち、夏がやって来た。ボコられかけた友人の家に集まってダベっているうち、つーちの命日にお墓参りに行こうという話になった。当日、部活やらなんやらで集まれたのは夜の9時ごろ。お墓の場所がわからなかった私たちは、まずつーちの家に行くことにした。つーちの親に会うのは気が引けて「お前が先にいけや」と押し付け合いをした結果、ジャンケンに負けた私が最初に入ることになった。
玄関の扉を開けると、灯りのついた隣の部屋がガヤガヤと盛り上がっている。「すいませーん」と何回か呼びかけてようやく、あんまり顔を覚えていないが、つーちの父親であろう人が出てきた。夜遅くにゾロゾロとやって来たのが不審だったのか、「なんや」と不愉快そうな態度だったが、お墓の場所を知りたい、仏壇にお線香をあげさせてほしいと伝えたところ、父親は驚いた顔をし、そして「ありがとう、ありがとうなあ」と崩れ落ち泣き始めた。もらい泣きをこらえつつ、居間に導かれ線香を上げる。泣いている父親の肩を作業着のおっさんが抱いていた。
つーちの家を出たあと、真っ暗なお墓でお参りした。私たちは今まで感じたことのない、温かい達成感のようなものを共有していた。
帰ってくれるか?
翌年も夏になり、命日が近づくと誰かが「そろそろお墓参り行かんといかんなあ」と言い出す。つーちの家に行くとまた父親がいて、私たちの顔を思い出したのか「あいつのこと覚えててくれてありがとうなあ」と仏壇へ導いてくれた。きっとあのヤンキーたちはお参りに来ることもないのだろう。人が死んだ直後に感傷的になるのは簡単だ。あいつらと私たちとの思いの深さの違いは、こういったところに表れるのである。
また1年が過ぎた。私たちは高校を卒業し、みな地元を離れた。それでも夏休みに地元に戻ると、お墓参りへ行く流れになった。
つーちの家では、また玄関の隣の部屋で酒宴が催されていた。何度か呼びかけると父親が出てきたが、明らかに面倒くささを漂わせ、前年と様子が違う。酔っ払って私たちの顔を忘れているのか。でも目的を伝えれば思い出すだろう。「今年もお参りに来たんですけど……」と伝えたが、父親の表情は変わらなかった。そして「もうここには仏壇ないから帰ってくれるか」とぶっきらぼうに言った。
あれから何があったのかは知らないが、いろいろと家庭の状況が変わったのだろう。不穏なムードを察した私たちは落胆を隠しながら、そうなんですね、すいませんなどと言い、そそくさと家を後にした。肩透かしを食った気分だった。
良かれと思ってした行いが、父親の生傷に塩を揉み込む結果になってしまったのかもしれない。しかしそもそも、私たちは父親に会うためではなく、仏壇にお参りするために家に行っていた。予想以上に父親から感謝されてしまったことで、お参りの目的が変わってしまっていたのだろうか。自分でもはっきりとはわからないが、実際、翌年からは誰もお墓参りのことを言い出さなくなった。
お墓参りに行かなくなったとはいえ、あのヤンキー先輩たちよりは自分の方が今でもつーちのことを思い出す機会は多いと思う。確かめる術はないし、思い出すことに意味があるのかもわからないが。
文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2024年12月号より