細い路地にある、おもちゃ箱のような店
戸越銀座駅から徒歩30秒、アクセス至便な『SPERANZA』。ただし、うっかりすると近すぎて迷ってしまうかもしれない。駅舎と『亀屋万年堂』の間の路地は、本当にこの先に店があるのかと不安になるほど細い。上り方面改札の前にある赤い看板を目印に進んでみよう。
路地に入ると、なるほど、1分とたたないうちにオレンジ色の小さな店が見えてきた。間口の狭い細長い店内は、真ん中にカウンター席、窓際と壁際にテーブル席がある。ビタミンカラーの壁やワインボトルと、酉の市の大きな熊手が不思議になじんでいて、おもちゃ箱のようなワクワクする空間だ。
王道のミートソースと自家製生フェットチーネ
ランチメニューには、個性豊かな6種類のミートソースが並ぶ。専門店だけあって、どれもおいしそう。初訪だし、ここは店の名を冠したスペランツァ特製ミートソースをチョイス。麺は自家製のフェットチーネと乾麺から選べるが、ここはやっぱり自家製フェットチーネ。ミニパンとミニサラダがついて790円は、財布にやさしい価格設定でうれしい。
オーダーすると、テーブルにミニパンとミニサラダ、粉チーズと瓶入りのソースが並んだ。サラダはミニといいながらも器にたっぷり。そして、追いかけるようにできたてのスペランツァ特製ミートソースがサーブされた。
きしめんのような平打ちのパスタにミートソースがたっぷりとからんでいて、鼻をくすぐる匂いがたまらない! 早速、いただきます。
口の中で踊るようなちゅるんとした食感は、自家製の生フェットチーネならでは。軽やかなパスタが、部位にこだわった牛と豚の合挽きの肉感を引き立てる。煮込んだトマトと香味野菜のソースは、初めて食べたのになぜか懐かしさを感じる。ほっとする味なのだ。
ふと思い立って、ミートソースをパンに乗せて粉チーズを振ってみた。うん、やっぱり合う、合わないわけがない。
途中でフェットチーネにも粉チーズ、そして瓶入りのソースを足してみた。今までのほっとするような懐かしい味にコクと辛さが加わり、ぐっと奥行きが深くなる。午後から仕事でなければ、ワインを追加したいぐらいだ。
個性が際立っているわけではないけれど、食べ終わるのが残念なぐらい好きだな、この味。大事にとっておいたパンで、残りのソースをきれいにぬぐった。
シチリア旅行でのなんてことないボロネーゼの記憶
オーナーシェフの北原広志さんは、イタリア料理一筋。独立するときは1人でこなせる小さな店を、と思い描いていた。
「仕込みのことを考えたら、カレーもいいかなと思っていました。ただ、1人で回せる手ごろな店舗がなかなか見つからなくて。あちこち探していたら、阿佐ケ谷でミートソース専門の店を見つけたのです。これなら自分がずっと続けてきたイタリア料理を生かせると思いました」。
やがて、現在の店舗と出会う。「駅のすぐそばで、当時住んでいた川崎にも近い。店の名前『SPERANZA』は、イタリア語で希望という意味です。音の響きも気にいっています」。
北原さんには、忘れられない味の記憶がある。「1997年に、1人でシチリアを旅していたときのこと。シチリアといえば魚介料理なんだけど、たまたま行ったなんでもない軽食屋で、今日はボロネーゼ(日本でミートソースと呼ばれるもの)のパスタがあるから食べるかといわれました。出てきたボロネーゼは、とても素朴。でも、それがめちゃくちゃおいしかった」。
「次の日にまた行ったら、その日はなくて。食べたのは一度きりだったけれど、今でもよく覚えています。だから、インパクトのある料理よりも、あのボロネーゼのような、ごく普通の味を目指しています」。
ひと晩寝かせて製麺する自家製の生フェットチーネは、食感がよいだけでなくゆで上がりも早い。働いている人のランチ時間は限られてしまうから、少しでも早く提供できるように生フェットチーネも選べるようにしたという。
「イタリアでは、ボロネーゼは平打ち麵にからめて食べます。日本では乾麺のスパゲッティが一般的だし、最初は半々ぐらいかなと思ったら、今や9割以上のお客さまが生フェットチーネを選びます。製麺には結構力がいるんですよ。おかげで、腕だけは引き締まっています」と笑う北原さん。
一番の人気メニューはやはりスペランツァ特製ミートソース。注文の9割5分以上になることもあるという。「最初は皆さんこれを選んで、そのあとは一通り食べてみて、やっぱりこれに落ち着く人が多いですね」。
その次に人気なのは? と聞いてみると、「それぞれのソースに熱烈なファンがいて、顔を見たら注文を聞かなくてもわかるほど。だから、その人たちの来る回数によって2番目は変動します。ホロホロになるまで煮込んだ牛スネ肉のミートソースは肉がゴロゴロ入っているので、パスタ抜きで注文してワインとともに楽しむ人もいますよ」。
夜は日によって変わる黒板メニューで、1人で来ても数品楽しめるよう小さめのポーションで出している。なかには、週に3~4回訪れる常連もいるという。「あの店に行こう、というよりも、あの店でいいかというぐらいの気軽さで来てもらえたらと思っています」と北原さん。
あの店でいいかと自然に足が向くのは、おそらくその人が一番ほっとできる行きつけの店。その店で食べる普通の味こそ、誰にでもある忘れられない味なのではないかと思った。
構成=アート・サプライ 取材・文・撮影=松本美和