和田峠から神奈川県藤野まで通じる街道
八王子市の西部、神奈川県との境界近くにその街道はある。甲州街道の追分から始まり、恩方地区を通り、和田峠から神奈川県の藤野まで通じる陣馬街道だ。昭和30年ごろからその名になった。その昔は案下(あんげ)道、恩方街道、佐野川往還などと呼ばれたこともある。江戸時代には、監視が厳しい旧甲州街道の小仏関を避けて、こちらの道を利用する人も多かったようで、甲州裏街道とも呼ばれたそうだ。
街道筋にある浄福寺の裏手の山には街道を見守るように山城が造られ、関場(高留)には関所も設けられた。そこは今は谷間の山村という風景だが、城が築城された数百年前は、どんな風景だったのだろうか。
山城とはいえ城があったのだから、城下町のようなにぎわいもあったのかもしれない。街道の奥のほうは、平家の落人伝説もあるところなので、築城された室町時代より前から人が住んでいたところなのだろう。
浄福寺付近から陣馬街道を辿り、関場から街道と分かれ、奥地の醍醐あたりまで行くことにした。
“山のお寺の鐘”をたたいてみる
浄福寺近くの大久保バス停で降りた。初冬の季節、けっこう肌寒い。地元の人が言うには、「都心部より5度は低い」のだそうだ。そのくらいの気温差はあるだろう。
恩方の地、夏はさぞや涼しく過ごしやすいと想像する。これから行く陣馬街道の奥地、醍醐地区では、「エアコンを設置している家はまずないだろう」とその地元の人。夏快適なぶん、冬季のマイナス5度は受け入れるしかない。バス停から少し戻ると浄福寺がある。この寺の裏手の山上に山城がある。浄福寺城、新城、案下城などと呼ばれる城で、東京では有名な滝山城と八王子城の間にあるためにあまり知られていない。その二城に比べると規模は小さいが、見どころは多い。特徴的なのは戦国時代そのままの堀切などが残っているところだ。詳しくは山城入門書である『攻める山城50城』(山と溪谷社)という筆者の本をどうぞ。
さて、陣馬街道の先へ。道はバスも通る舗装路だが、それほど車は多くなく、川に沿って曲がりくねった道には、古道の面影がある。道の両側には山々、道のすぐそばには北浅川の流れ。川面を眺めると、水が澄んでいた。
駒木野という地区に入ると、古い建物と立派な蔵のある家が何軒か。これは往時、炭焼きや林業で栄えた名残であろうか。古い家並みや門構えをみるだけでもなぜか心に響く。
その先で街道を離れ、山裾に立つ興慶寺に向かった。やや急な坂道を上がっていくと、お寺の本堂、さらに細い山道を少し上がると梵鐘があった。
あの有名な童謡の「夕焼け小焼けで日が暮れて、山のお寺の鐘が鳴る……」のお寺の鐘が、この興慶寺にある鐘らしい。作詞したのは中村雨紅で、恩方で生を受けた。
お寺に断わり、撞木(しもく)で思いっきり鐘をたたいてみた。「ごおお~~んっ」と、周囲に響き渡るいい鐘の音。全身に沁み入るような音だ。鐘楼の下方には恩方の集落と山間の風景。眺めもいいのが山の寺である。
寺から街道へ戻ってさらに先へ。ポニーなどの動物がいる『夕やけ小やけふれあいの里』から関場へ。古い郵便局がある。昭和13年(1938)築の上恩方郵便局だ。80年以上の歳月が流れた郵便局だが、いまだに現役。その先には口留関所の跡地。江戸時代に設けられた関所のひとつで、村人36人が交代で警備にあたったという。
関場で陣馬街道と支線の醍醐路とも呼ばれる奥地に通じる道に分かれる。どちらの道を辿っても和田峠で合流する。支線の先の奥地には、森久保、振宿、醍醐の集落がある。川名もここで醍醐川と変わる。
奥地への道案内は、醍醐集落生まれの通称、炭焼三太郎(*1)さんにお願いした。
醍醐で炭焼きを楽しむ三太郎
上恩方町で暮らす住民は約700人、奥地の醍醐地区はたった15人ほど。
「間違いなく限界集落ですね」
三太郎さんは明るく笑う。もちろん村の消滅を望んでいるのではなく、粘り強く村の生き残りを考えているのだ。森久保の集落に入ると、左手にこんもりとした小さなお山、堂山がある。山は禿山のように刈り払われている。
「山の上に地蔵があるんですが、むかし疫病が流行ったときに、疫病が収まるように祈願したんです。だから我々もコロナ撲滅を祈念して、花粉の飛ぶ元凶のスギやヒノキの木を切って、桜や花を植えているんですよ。山名も“祈りの山”と名付けました」
山とも呼べないような10m足らずの低い山。上がってみると、醍醐川の向こうに森久保の集落とお寺の風景が広がっていた。
醍醐地区に入ると左手に村の鎮守の龍蔵神社がみえてきた。苔むした大木と神社の佇まいがなんとも御利益ありそうな神社である。その神社近くに三太郎さんの炭焼きの基地がある。醍醐川にかかった小さな橋を渡っていくと、小屋のようなものがいくつもある。さしずめ炭焼き村か。
「炭は祖先から未来への贈りもの」という三太郎さん。つまり贈り物の担い手として炭焼きを仲間とやっている。でも、どうして炭焼きを?
「もともとここは炭焼きと林業の村だった。昔は実家も炭焼きをやっていたんです。それで市会議員を辞めたときに、炭焼きもいいなと」
大きな釜のようなものがある。五右衛門風呂だそうで、「三太郎の湯」と書かれた看板が小屋上にかかっている。
「炭はできるまで三日三晩かかるので、ここで寝泊まりしなくちゃならない。で、お風呂も完備しているんです」
自在鉤がぶら下がる囲炉裏を囲んで一杯飲めるところもある。この炭焼き村は、いわば大人の遊び場なのだ。ちなみに現在の三太郎さんの住まいは恩方ではなく八王子市某所。高尾駅から「陣馬高原下」行きバスに乗って、今も醍醐の炭焼き村に通っている。
最近はホタルを飛ばすためにカワニナ(巻貝)を育てている。カワニナはゲンジボタルの幼虫のエサになる。
「山の水がきれいなのでよく育つんですよ。ホタルもだんだんと数が増えています。昨年は数匹でしたが。夢はここから東京湾まで飛ばすことです」
今年はかなりの数のホタルが飛び立つ予定である。
*1 炭焼三太郎
本名は尾崎正道。75歳。大学時代に社会党系の政治組織に属し組合運動に力を注ぐ。その後、山花貞夫社会党委員長の第一秘書を経て37歳の時に八王子市の市議に。53歳で落選を機に政治の世界から離れ、炭焼三太郎を名乗り、生まれ故郷で炭焼きを始める。NPO法人日本エコクラブの理事長でもある。
陣馬街道とその奥地[東京都八王子市下恩方町・上恩方町]
【 行き方 】
JR中央線・京王高尾線高尾駅北口から西東京バス「陣馬高原下」行き約20分の「大久保」下車。
【 雑記帳 】
『夕やけ小やけふれあいの里』(☎042-652-3072)では入浴と食事ができる。宿泊施設も併設。
文・写真=清野 明
『散歩の達人』2022年2月号より