城峯山の中腹にある二つの山岳集落

秩父市の北部、皆野町と神川町との境に城峯山がある。標高は1038mで、それほど高い山ではないが、展望は素晴らしく、とても人気の高い山だ。

筆者は長い間、山のガイドブックなどもつくってきたのだが、なぜか城峯山には登ったことがない。考えてみると不思議なことだが、理由ははっきりしない。おそらくアプローチの問題だったのだろう。つまり住まいのある神奈川県からだとけっこう遠いので、城峯山に登るには前泊しないとたぶん不可能。そんなこんなで先延ばしになってしまった気がする。

でもよく知られている山でもあるので、下調べはしていたのだ。で、調べているうちに今度は山ではなく、山の中腹にある集落に興味が移ってしまった。それが石間地区にある半納と沢戸、二つの山岳集落だった。

半納集落からみる沢戸集落。標高は500m前後。南斜面に面しているので山にしては暖かいところ。
半納集落からみる沢戸集落。標高は500m前後。南斜面に面しているので山にしては暖かいところ。

この集落は標高が数百mほどの山の斜面に家が立っている。二つの集落は石間川を挟んでおよそ1㎞の距離。集落の戸数は昭和30年代には数十軒あったそうだが、いまは両村合わせても二十数軒、人口は40人くらいまでに減っているそうだ。

石間は秩父事件の場所だった

万年橋でバスを降り、吉田川の支流の石間川沿いの道を歩いていく。半納と沢戸集落の麓にある城峯山登山口までは数キロの道のり。1時間半ほどの長めの歩きになる。ただ車はあまり通らないので、周りの風景をみながらのんびり歩けるところがいい。

石間地区は石間川沿いに半根子、沢口、漆木、中郷、そして山腹に沢戸と半納の集落があり、すべて道沿いに村が点在する。

漆木を過ぎると中郷の集落に入る。ここには石間小学校があったが、2000年に閉校になり、空いた建物を利用して、いまは吉田石間交流学習館になっている。1階がそば打ち体験などのできる施設で、2階が秩父事件(*1)に関する資料が展示されている。石間は困民党が武装蜂起して、警察と戦った場所である。

学習館の先へ行くと、奥の山の斜面に張り付くように家々が立っている。それが沢戸の集落になる。バス停から1時間半ほどかかって、ようやく麓の登山口に着いた。

沢戸から眺めた半納の集落。アンテナが立っているところが、城峯山の山頂。
沢戸から眺めた半納の集落。アンテナが立っているところが、城峯山の山頂。

ここには大きな鳥居が鎮座している。古い石柱に「城峯山登山口」と刻んであった。ここからが城峯神社へ上がる表参道にもなる。

鳥居をくぐってまず半納へ上がり、集落内に入った。村内は物音ひとつしない。人の気配がないのだ。誰とも会わずに集落の外れまできた。ここからは城峯山への登山道になる。近くに主のいない民家があり、ツタがびっしり家を囲んでいる。いままさに家がツタに飲み込まれそうになっていた。西側をみると、隣の沢戸集落がよくみえた。

村内を歩いていると、「半納・堂の尾根」の標識があったので、そこから上がっていくと、沢戸の眺めがさらによくなった。そして高台のような場所に火の見櫓や常夜灯が立っていた。ここが「半納の横道」と言われるところで、秩父事件のまさにその戦いの場所である。火の見櫓は当時のものではなく、再建されたもので、そばに立つ常夜灯は当時のものだという。

半納の堂の尾根に、再建された火の見櫓と右手に常夜灯がある。ここが半納の横道という戦いの場所。
半納の堂の尾根に、再建された火の見櫓と右手に常夜灯がある。ここが半納の横道という戦いの場所。

秩父事件では、この周辺の人たちはみんな参加したといわれている。そんな話を聞くと、よほど明治政府に対して不満をもっていたように思えるし、権力に抗って立ち上がった秩父の人たちはなんと勇気のある人たちだろうと思ってしまうが、本当のところはどうなのか。参加した地元の人たちは、いまどんな思いをもっているのだろうか。

「秩父事件については、うちのお婆さんに昔、『そのことについては話すな』と言われました。本気でそれにかかわった人もいますが、たいていは頼まれて駆り出された人が多かったと思いますよ。本音では嫌な思い出なのではないでしょうかね。結局、罰金刑とか受けてね、あまりいい思い出ではないと思います」

話してくれたのは沢戸の新井初男さん(70歳)。沢戸の区長でもある。頼まれれば協力しないわけにはいかないという強い絆があったということでもある。それが“お上”にたてつくようなことでもだ。

城峯神社に見守られている石間

来た道を引き返して鳥居から今度は沢戸へと上がってみた。上に行くと、急斜面に道がつくられ、高い石積の上に家が点々と立っていた。

沢戸地区の養蚕農家だった家。2階に縁をつけている出し桁(だしげた)造り、せがい造りとも呼ばれる。半納、沢戸の両地区ともに多い造り。
沢戸地区の養蚕農家だった家。2階に縁をつけている出し桁(だしげた)造り、せがい造りとも呼ばれる。半納、沢戸の両地区ともに多い造り。
沢戸の集落。上のほうに車道が通っているが、家々の間には迷路のような小路がある。
沢戸の集落。上のほうに車道が通っているが、家々の間には迷路のような小路がある。

「この石積は下の石間川から担いできたんです。人力でつくったから道は狭いんですよ。畑もこんな急斜面では機械も入らないし、すべて人力ですよ」とは新井さん。ほかにも昔の村のことについていろいろお聞きした。

「昔は集落には店が一軒あってね、酒やたばこ、食料品などを売っていた。それでは足りないので、引き売り(移動販売)が来てたね。来るとスピーカーで知らせるんです。するとみんなで下りて買いにいくんですよ」

集落の上から眺める下の石間川の風景がいい。川から村の上の道までは標高差およそ100m。まだ車がそれほど普及していない、新井さんが子どもの頃の昭和30年代には毎日の上り下りはさぞや大変だったのでは?

「荷物の上げ下げは人力ではとても大変なので、運搬用に各家々で馬を飼っていましたね。それにここは陽当たりがいいので、山にしてはあったかいところなんですよ。雪も年に数回は降ったけどあまり積もらなかったし。いまはもっと少ない」

石間地区は城峯神社の氏子だが、いまでも役員になると年に少なくとも数回は神社まで上るそうだ。

「昔からですが、いまも神社に見守られているような気持ちはみんなもっていると思います。ただ信仰心はそんなに強くはないけど(笑)」

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「ここを離れようと思ったことはありませんか?」

最後に新井さんにぜひとも聞きたかったことだ。

「若い頃に思ったことはありますよ。でも弱虫なので実行はできなかった(笑)。単にここから出て行く勇気がなかったんですよ」

新井さんはそう言ったが、本音はどうなのか。

「ここはね、年をとったら暮らしやすいところです。みんなで助け合って、協力して暮らしているところです。子どもの世話にはならず、ここで人生をまっとうしたいとみんな思っている」

山の斜面を行ったり来たり。足腰が強くなければここでは暮らせない。でも死ぬまでここで暮らしたいと思うのは、昔ながらの助け合って暮らす村落共同体のような関係が、ここには残っているということだ。だんだんと桃源郷のように思えてきた。

 

*1 秩父事件
明治17年(1884)10月、秩父郡の士族と農民が明治政府に対し、負債の延期や税の減少などを求めて起こした武装蜂起事件の一つ。この頃は秩父だけではなく、各地で似たような事件が起こっている。秩父事件では隣の群馬県や長野県まで波及して、数千人規模の大きな事件に発展した。自由民権運動の一つとされている。警察や憲兵に結局鎮圧された。事件後には4500人以上が処罰され、7人には死刑判決が下された。ちなみに半納の横道で戦ったのは、明治17年11月4日の昼頃と言われている。

石間の山村 沢戸と半納[埼玉県秩父市]

【 行き方 】
西武池袋線西武秩父駅から西武バス「吉田元気村」行き46分の「万年橋」下車。

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2023年3月号より