初めての福浦散歩

真鶴といえば川上弘美の小説『真鶴』、福浦といえば中川一政(*1)の一連の絵画が思い出される。筆者は真鶴には何度か足を運んでいるが、すぐ隣の福浦へは行ったことがなかった。今回が初めての福浦散歩。何かの面影に出会えるような予感がしたのだ。

福浦の前に真鶴体験を少々。いちばん思い出深いのは、最初に訪れたとき。真鶴半島の先端まで行き、さらに海上に浮かぶ三ッ石まで足を延ばした。

海水が引いた干潮時、まさにモーゼの海割れのごとく(海は割れないけれど)、ごつごつした岩が出現して三ッ石にたどりつく“海上の道”ができる。思ったよりも岩が大きく、距離のわりには時間がかかる。もたもたしていると、それこそ海水が押し寄せてきて海の藻屑になるかもしれない。実際、藻屑ではないが帰れなくなった人がいて、船で救助されたこともあるそうだ。

海割れを突破したときは冬だったこともあり、帰りには強風が吹き、寒さに震えてほうほうの態で岬へ戻った。それ以来、海上の道は歩かないことに決めた。

福浦に引き寄せられた漁師たち

真鶴駅前の国道135号を右へ入る。するとすぐ真鶴町と湯河原町の境界。福浦はずーっと真鶴町だと思ってきたが、ここは湯河原町なのである。まもなく左手に福浦の集落がみえてくる。坂道を下りると別世界だった。

港へ下りる石段。集落内にはかなりの石段があるが、筆者が調べた限りでは50~55カ所。
港へ下りる石段。集落内にはかなりの石段があるが、筆者が調べた限りでは50~55カ所。

少し下っていくと、この坂道から石段が何カ所も上に延びている。急な石段の近くでおばあさんが庭の手入れをしていたので声をかけてみた。

「ここは坂道と階段の多いところなんですよ。谷の両側の斜面に家が立っているからね」

と、おばあさん。さぞや足腰が鍛えられ長寿の人が多いのでは?

「そうです。長生きの方が多いと思います。特におばあちゃんたちが元気なんですよ」

話をしたおばあさんは福浦生まれではなく、随分前に移住してきた。隣の急な石段は真鶴駅への近道なので、ときどき使っているそうだ。これは元気になる石段にちがいない。

坂を下って港近くのまたまた石段の続く道を上がって、醍醐院のお墓に寄ってみた。急斜面に多くのお墓。実に眺めがいい。福浦港、湯河原の遠景、そして初島もみえた。筆者の経験では、お墓は眺めのいいところに多い。

茅葺き屋根が残る子之神社。西暦700年創建とも言われるが、社を設けた953年が正式の創建。
茅葺き屋根が残る子之神社。西暦700年創建とも言われるが、社を設けた953年が正式の創建。

墓の帰りに隣の子之神社にも寄ってみた。古い神社のようで、茅葺き屋根である。創建は定かではないが、西暦700年ごろか。福浦に人が住み始めたのはさらに古く、太古の昔と言われている。神社から急坂を下り福浦港へ。中川一政が何度も通った港である。

係留されている船は十隻以上。釣り人がいたので聞いてみると、メジナを釣りに横浜から来たとのこと。

福浦港の岸壁の突端に釣りびと。横浜市からときどき来るという。今日はメジナを狙っているとか。
福浦港の岸壁の突端に釣りびと。横浜市からときどき来るという。今日はメジナを狙っているとか。

港のそばにやたらと人のいる場所があった。食堂のようだ。近くにいた人が、「今日は40分から1時間待ちだよ」というのであきらめた。味はわからないが、一番のごちそうは海を眺めながら食べられる風景のようだ。

民家の間の迷路のような道を抜けたりしながら、再び国道のほうへと上がった。国道の手前にお店が1軒。おなかも空いてきたし、ここは観光客で混んでもないようなので入ってみた。店名は『ルートカフェ』。もとは干物屋だったところを改装して作った店で、地元の漁師が捕った魚を食べられるとあったので、それを注文。

「私がその魚を捕った漁師です」

びっくりした。漁師が本業なのか店が本業なのか。

「漁師が本業です」と、漁師の佐々木幸壽さん。いろいろ話を伺うと、20年ほど前に福浦に来たそうだが、漁師になるために来たのではなかった。

「友人が熱海のほうに住んでいて、自分も駅からも近く海の見えるところに住みたいと思い、たまたま福浦にみつかったので横浜から移住してきたんですよ」

福浦漁協の組合長だった高橋富士一さん(64歳)。
福浦漁協の組合長だった高橋富士一さん(64歳)。

佐々木さんはその後、120日間無給で漁師の見習いをして、晴れて漁師になった。店は昨年始めたという。

「ここはいいところですよ。陽当たりもいい場所で。階段と坂が多いので最初は大変でしたが、そのうち不思議と慣れるんです」

佐々木さんは海から福浦を眺めると、はるか昔、太古の時代に海を渡ってきた海洋民族がここ福浦にもきっと上陸したのではないかと思う、と言う。

民俗学者の柳田國男(*2)が最後に著した『海上の道』では、縄文時代と弥生時代の境あたりに海洋民族は南方から黒潮に乗ってきたのでは、と書かれている。いまではそれよりも古く、2~3万年前にはもう日本各地にやってきたのでは、と考古学の研究でわかってきた。そして現代の移住者は海上ではなく、東海道本線か国道の“陸上の道”で福浦にやってきた。いま福浦の港は、ほとんど陸上の道でやってきた漁師たちによって支えられている。

福浦港の風景も変わってしまった

日をおかずして再び福浦を訪れた。福浦で生まれ育った人に会いたかったからだ。佐々木さんにお願いして、漁協の元組合長にお会いすることができた。その人は高橋富士一さん。代々福浦の漁師の家の後継ぎだったが、海より山が好きで、親からも「漁師にはなるな」と言われていたという。昭和40年代になると、魚がだんだんと捕れなくなってきたからだ。原因はどうも水温の上昇のせいのようだ。

漁師が本業の佐々木幸壽さん(60歳)。『ルートカフェ』も経営している。
漁師が本業の佐々木幸壽さん(60歳)。『ルートカフェ』も経営している。

「いったんサラリーマンになったんですが、30代にやめたころに漁協の市場の手伝いを頼まれ、さらに定置網の漁師が引退するので、結局、漁師になったんですよ」

福浦についても話を聞いてみた。

「うちの祖父は、中川一政さんをよく知っていました。彼が港で絵を描いたあとに絵の道具をうちの小屋で預かったりしたそうです。でも、そのうち福浦では描かなくなった。たぶん福浦の景観が変わったからだと思います」

当時はコンクリートの護岸もなく、茅葺き屋根が残る漁村だった。その風景は徐々に変わり、彼の画欲も失せたのだろう。

洋画家の中川一政が何枚も描いた福浦港。当時とは風景が変わってしまった。
洋画家の中川一政が何枚も描いた福浦港。当時とは風景が変わってしまった。

雰囲気がいいわけは“やさしさ”ではないか

高橋さんはこうも言っていた。

「福浦に来た人はよく、『ここは雰囲気がいいね』と言うんです。なぜですかね」

これは筆者の勝手な想像だが、ここはずっと坂と石段の漁村だったところ。お互い石段の上り下りには苦労している。また狭い場所に寄り添うようにして暮らしてきた。長い間、助け合って暮らしてくれば、それこそ人にやさしくなるのではないだろうか。

代々福浦で暮らす高橋さんはもちろん、“陸上の道”でやってきた新しい福浦人の佐々木さんたちも、やさしい人たちにみえる。それが福浦に来た外部の人に「雰囲気がいい」と言わしめる源なのではないかと思った。

国道135号から福浦集落にすぐ入らずに国道をそのまま進めば、西側から集落の全体が見える。
国道135号から福浦集落にすぐ入らずに国道をそのまま進めば、西側から集落の全体が見える。

*1 中川一政
1893年生まれの洋画家。1991年没。1914年に岸田劉生に見いだされ、画家に。1949年に真鶴町にアトリエを構え、福浦の港へ通い、80点ほどの作品を描いた。その後は箱根に通い駒ヶ岳を描くようになる。

*2 柳田國男
1875年生まれの民俗学者。1962年没。日本民俗学の第一人者。『海上の道』は最後の著作で、日本人はどこから、どのようなルートで来たのかについて表した著作だ。

福浦[神奈川県湯河原町]

【 行き方 】
JR東海道本線真鶴駅下車。

【 雑記帳 】
国道135号から福浦港のほうへ下りてすぐ右側にある『ルートカフェ』では、地元漁師(店のオーナー)が釣った魚なども味わえる。10:00〜15:00(土・日は11:00〜)、月・火休。☎0465-46-9849

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2023年2月号より