俺たちは「東京の人」になった。ただそれだけでうれしかった。
3月にしては暖かい日だった。第一志望の早稲田大学文学部に合格した私は、姉に付き添ってもらい不動産屋を回っていた。高田馬場駅近くには不動産屋がいくつもあり、おすすめの物件情報がペタペタ貼られた看板がずらりと並んでいる。とりあえず名前を聞いたことのある綺麗な不動産屋に入ったが、話を聞いている合間に姉から「やす、もうここ出るで」と促された。店を出て「何がいかんかったん?」とたずねると、こちらが指定した値段よりちょっと高い物件ばかり出してくる不動産屋はダメだ、とのこと。「不動産屋って基本こっちの言うことごまかして、できるだけ高い部屋借りさそうとしてくるもんやから、気つけんといかんで」と姉は言った。いい人そうな店員だったが、確かに私の希望より数千円高い物件ばかり紹介してきた。でもちゃんとした不動産屋がそんなずるい事をするものだろうか。次は「早稲田の学生向け物件多数」と看板に掲げていた店に入ってみた。さっきは「高田馬場周辺で3万円代」という条件を伝えると非常識なことを言っているような反応をされたが、そこの若い男性従業員は「風呂無しでかなり古いアパートになりますよ?」と牽制しながらも、条件を満たす物件を最初から出してきた。なるほど。姉の言う通り、いい不動産屋と悪い不動産屋があるのかもしれない。その不動産屋の従業員の多くは早稲田の卒業生らしい。私が当たった男も法学部だったという。物件の紙を見せながら、「ここ友達が住んでたんですけど居心地よかったですよ」などと現場感のある情報をくれる。この不動産屋いいじゃん、と思った。いくつか紹介された中から2つに絞り、流れのまま内覧をすることに。歩いて向かっている途中、「何で文学部にしたんですか?」とたずねられた。自分なりに細かい理由はあったが、話せば長くなる。「まあ本とか好きなので……」と曖昧に答えると、「へえ、どんな作家読むんですか?」と掘り下げてきた。好きな本はたくさんあったが、好きな作家は誰かと聞かれたらなかなか難しい。国語の教科書に紹介されているような有名な文学作品はそれなりに読んだものの、掘り下げて何冊も読んでいる作家はほとんどいなかった。悩んだ末に、思いついたのが重松清だ。直木賞を受賞したタイミングで名前を知り、図書館で借りて読んでみたら面白かったので5冊くらい読んだ。どれも面白かった。確か、あの人も早稲田出身だったしその辺でも話が広がるかもしれない。そんなことを思いながら「重松清とか読みますね」と答えた私に対し、不動産屋は苦笑しながら「ああ……、あんま本読まないんですね」と言った。イラッとした。どうして売れてる作家だと読んだことにならないんだよ。咄嗟に「え、じゃあ誰の本読むんですか?」と聞き返すと、彼は表情に余裕を浮かべ「三島とか谷崎とかですかね」と言った。卑怯な男だ。歴史が才能を証明した、否定しようのない作家ばかり挙げてきて。三島由紀夫が天才だったとしても、それを読んでるお前がすごいことにはならない。ていうか俺も『痴人の愛』ぐらい読んだことあるし。地元では好きな本の話をできる友達が少なく不満だったが、東京ではふらっと入った不動産屋の店員が好きな作家で人を見定めてくる。いや、早稲田にそういう奴が多いだけかもしれない。そういえばこの店員は文学部より若干偏差値が高い法学部の卒業生であることを、聞いてもいないのに節々でアピールしてきた。大学で音楽サークルに入るつもりだった私は、サークルを回って好きなミュージシャンをたずねられた際は、人から絶対にマウントを取られない名前を挙げようと、そのとき深く心に刻み込んだ。