宮沢和史
みやざわかずふみ/1966年、山梨県甲府市生まれ。THE BOOMのボーカリストとして1989年にデビュー。生命感あふれる音楽の源泉を求めて国内外を回り、多くのアルバムをリリース。代表作の一つ『島唄』は、国境を越えていまなお世界に広がり続けている。THEBOOMは2014年に解散し、現在はソロミュージシャンとして活躍。著書に『沖縄のことを聞かせてください』(双葉社)など。
X:@miyazawa_info
山梨県の形っていいな。そうだ、クッキーを焼いて渡そう
—— 2024年6月に行われた武田神社でのコンサートはいかがでしたか?
宮沢 武田神社は、甲府の人間は必ずお世話になりますから、その能舞台で歌えるのは誇らしく「どうだ、うちのふるさとの能舞台はいいぞ~」という思いでしたね。
—— MCでは、武田信玄に続く「山梨が生んだスター」と。
宮沢 冗談です(笑)。山梨には田原俊彦さん、林真理子さんなど、多くのスターがいますから。
2024年9月には、山梨のよいところを知ってもらおうと旅のツアーをプロデュースしたんですよ。ソムリエになった高校の同級生のレストラン(『BISTRO Milleprintemps〈ビストロ・ミル・プランタン〉』)で、山梨の野菜を使った料理とワイン、それから僕のライブなどいくつかのプランを考えまして。
そのツアーの3日前、山梨の形っていいなと思って、手作りクッキーを焼こうとひらめいたんです。
ホームセンターでアルミ板を買い、山梨の型を作るまではすごく楽しくて。問題は生地。信玄餅をイメージし、きな粉と西表島(いりおもてじま)の黒糖を入れたんですが、うまくいかず、夜中までかかりました。
—— 何人がかりで?
宮沢 家で、僕一人(笑)。お客さんはすごく喜んでくれました。
山梨には人間に必要なものが全部ある
—— なんて貴重なクッキー! 形も素敵な山梨のおすすめ旅は?
宮沢 山梨は、エリアによって表情が全然違うんですよ。高原なら北のほう。清里、八ヶ岳、大泉。僕が曲を作るときは、小淵沢(こぶちさわ)でバンガローを借りて籠もるんです。
南のほうだと、身延山(みのぶさん)と温泉がある古い町・早川や、南東に位置する忍野八海(おしのはっかい)がある忍野村も趣があります。東のほうだと、都留(つる)も自然がとっても豊かです。
山梨は野菜、果物、お米——人間が生きていくのに必要なものが全部あります。大規模な工業地帯がないから、空気も水もすごくきれい。
最近では、レミオロメン(活動休止中)の前田啓介くんが始めたオリーブ農園のオリーブオイルが、2024年の国際品評会で金賞を獲得。同じくレミオロメンの藤巻亮太くんは、富士五湖でライブをよくやっています。
—— 空気と自然。そして音楽。同郷の藤巻さんとは、35 周年記念アルバム『~35(サンゴ)~』で共作を。
宮沢 僕が作詞をし、彼に曲を自由に作ってと頼んだんです。山梨にいた頃の自分といまの自分を比べているという僕の詞に、期待を超えるポップな曲を作ってくれました。
彼と世代は違うけれど、山梨の冬の寒さや、風の強さ、夏の夕方は虫が多いとか、トウモロコシは醬油をつけて焼いたよねとか、同じ景色を見て育っていますから。曲作りでも、そうそう、そうなんだよねって通じ合えましたね。
—— 改めてデビュー35周年、振り返るといかがですか?
宮沢 あっという間、ではなかったですね。「THE BOOM」のメンバーとの出会いが一番大きくて、神様からいただいためぐり合わせだと思います。非常に濃い道のりでした。
—— メンバー4人の出会いは?
宮沢 僕は高校時代からバンド活動を始め、プロになろうと思っていたので、東京に出ないとチャンスはないと。
明治大学に進学し、いろんな人と出会うなかで、山梨出身の山川(ベース)と小林(ギター)と親しくなり、当時、山川が一緒にやっていた千葉出身の栃木さんにドラムをお願いし、バンドを組むことになったんです。
そこからすぐ、道端でやればチャンスがあるだろうと東京・原宿のホコ天へ。
何百、何千という人が川のように流れていくなかで、初日、聴いてくれたのはたった一人。『星のラブレター』(歌詞に甲府市の“朝日通り”が登場)は、その頃作った曲です。
人生を変えた山梨の釣り。とりつかれたやんばるの山
—— その5年後には、長く深く関わり続ける沖縄へ。
宮沢 沖縄にはずっと惹かれていて、アルバム『JAPANESKA』のジャケットは、どうしても沖縄で撮影させてくれと僕が言って。那覇空港から車で移動し、降り立ったのが、やんばるの山の中でした。
そのとき、目の前をおじいちゃんと水牛が通りかかったんです。その姿が本当にゆうっくり、ゆうっくり。能を見ているようなんです。
ついていったら、おじいちゃんが沼で牛に水浴びをさせていて。その様子を見た瞬間、沖縄にとりつかれました。ここだ、俺は人生をかけてここを旅するぞと。
—— 沖縄と山梨が似ているところはありますか?
宮沢 沖縄には「模合(もあい)」といって、毎月みんながお金を出し、一人がもらうという慣習があるんです。例えば、模合の会に参加する複数人が一人1万円ずつ出したら、誰か一人が全額をもらう。次の月は別の人がをもらう。
山梨も戦時の空襲で焼けてしまい、互助制度が必要となり、同様の「無尽(むじん)」という仕組みが盛んでした。
山梨にはないものを求めて沖縄に憧れたつもりが、実は似ているんですよね。自己アピールが得意じゃないとか、閉鎖的だけど、コミュニティで助け合う人間関係があるとか。
—— そんな山梨での忘れられない思い出は?
宮沢 僕は体が小さくて、しょっちゅう病気をしていたので、友だちのあまりいない子どもだったんです。ある日、一人でとぼとぼ歩いていたら「一緒に帰ろうよ」と近所の子が話しかけてくれて。
彼の家に遊びに行ったら、お父さんが釣り好きで、壁に魚拓が飾ってあったんです。見とれていたら「釣りに行こう!」と誘われ、僕は道具がないので、家のビニールハウスを解体し、骨の部分を竿にして、先っぽに糸をつけて。
釣れないけど、友だちができたこと、誘ってくれたこと、自然ってこんなに楽しいんだって、人生がガラッと変わりました。
その恩人と大人になってから、川でたまたま会ったんですよ。「よお!」って。釣りは、やっぱりすごく上手でした。
—— 自然がつなぐ縁ですね。宮沢さんにとって、ふるさととは?
宮沢 親みたいなものでしょうか。2016年にヘルニアがガマンできなくなり、一度、歌手活動をやめたんです。もう歌うこともないだろうと。元気になったらほかの道に進もうと準備をしつつ、ときどき気持ちが落ちていく。
音楽を全力でやってきたので、空白にいるようで怖くなるんです。自分以外の人が言っていることが全部正しいような気持ちになったり。
でも、例えば僕が音楽をやめたとしても、例えばある人は罪を犯してしまったとしても、ふるさとは許してくれる。帰ってこいよと言ってくれる。実際には帰れなくても、精神的に帰れる場所があるだけで幸せだなって。
それと、誰かの言葉ですが「ふるさとは感受性の生みの親」と。僕が山梨にいたのは18歳までですが、そこで感受性は培われていたと思うと、僕の音楽は全部、山梨にいた頃の価値観、美意識で作られている。感謝しかないです。
—— 再び音楽の世界に戻ったきっかけは?
宮沢 お世話になった方から東日本大震災のチャリティーコンサートに誘われて、最初は断ったんですが、まあ行ってみるかと。ステージに上がるのも怖くなっちゃってね。声も出ないし、もうボロボロ。
でも、お客さんがすごい拍手をしてくれて、自分はこんなに素敵な場所にいたんだって。
歌を届けに行くと、別の人生を歩んでいる者同士が、その時間だけ運命をともにする。それってすごく素敵なことだなって。それから呼ばれたら行くというのを繰り返し、ずるずると復活を(笑)。
美しい言葉と景色を音楽に閉じ込めたい
—— 以前と変わったことは?
宮沢 僕はずっと「ロック」という言葉にこだわってきたんですよね。社会にメッセージを投げかけ、何かをよくするために、音を出す。それがロック・プロテストと。
『島唄』も三線(さんしん)という楽器をバンドに持ち込み、沖縄戦の戦没者へのレクイエムと平和への祈りを歌う、その姿勢がロック。
でもいまは、力んで音楽でメッセージを伝えるというより、囁くように、いま僕が思っていることを発信し、聴いてくれた人が、何か気づいたり、新しいことを始めてみようかなと思ったり、そういうきっかけになるものを振りまく。それがいまの僕の音楽かなって。
—— 未来につなげたいことは?
宮沢 先日、西表島のマングローブ林で釣りをしたんです。干潮を待って泥の中を歩き、釣りあがったんですが、野生のイノシシが走ってるんですよ。
気づくと周囲に、人間が関わったものが一つもない。鳥肌が立ちました。子どもたちには、こういう美しいものを見せたいし、伝えたい。
僕の場合、伝え方は音楽で、目には見えないけど、美しい言葉と風景を音楽に閉じ込める。音楽は心に響けば旅と同じで、一生忘れない体験になりますから。
宮沢さんの豪華な音楽仲間も参加! 音楽生活35周年アルバム『 ~35~』
藤巻亮太さんとの共作でNHKラジオ深夜便「深夜便のうた」に選ばれた『遠影』や、プリンセス プリンセスの岸谷香さんがギターとコーラスで参加した『星のラブレター』、“先祖返り”の『島唄~琉奏~』など、いまこそ聴きたい宮沢さんの音楽を7曲収録。
よしもとミュージック/CD+DVD 5500円、CDのみ2750円。配信もあり
聞き手=さくらいよしえ 撮影=千倉志野
『旅の手帖』2024年12月号より