今回の“会いに行きたい!”
館主の福田智(さとし)さん
沢渡温泉 まるほん旅館(群馬県中之条町)
まるほん旅館の館主・福田智さんはかつて地元銀行の融資担当だった。宿を引き継ぐことになったのは2005年のことである。
冗談で、やりますよって 言ってしまって……
なぜ、銀行マンが宿の館主になったのか? それには3つの理由がある。
1つめは、先代・福田勲一さんが宿を引き継ぐ人を探していたから。2つめは、銀行員としてさまざまな経営者と対峙するうちに、「自分も何かやってみたい」と思っていたから。3つめは、沢渡温泉のお湯の力に惚れたから。
先代は沢田村(現・中之条町)の村長などを務めた家の出で、豪放な性格。70歳を超え、親族への宿の承継がうまくいかなかったときに、相談にのっていた銀行の担当者・智さんに白羽の矢を立てた。
「経営状況はいい宿でしたのでたくさんの引き継ぎ候補先があったのですが、先代がことごとく断ってしまったんです」
療養スタイルを引き継いでほしいという先代と、売り先の意向が合致しなかったからだ。
「冗談半分で『俺がやりますよ』と言って、ミイラとりがミイラになってしまったんです」
この時37歳。妻と2人の子どもがいたが、養子縁組をして名字を「田中」から「福田」に変える一大決心をする。源泉権の関係で、親族でなければ宿を相続できなかったのだ。
3つめの理由である泉質のよさは、リピーターの折り紙つき。智さんも「初めてここの温泉に入ったときに、背筋に電流が走るような衝撃を受けた」。それほどいいお湯だと感じたのである。
実際に入ってみると、湯船から出たくなくなるやさしい湯でありながら、疲れを癒やす力強さもあわせもつ。「一浴玉の肌」の評判どおり、お肌もしっとり、なめらかになった。
レトロな趣の混浴大浴場は宿泊客だけの限定に
宿の前の坂道は草津街道。江戸時代に多くの人が、江戸から草津温泉へ行き来した道である。沢渡温泉は刺激の強い草津温泉の治し湯といわれ、かつては芸者の置屋が4~5軒あったほど、にぎわっていた。
昭和10年(1935)の水害、昭和20年(1945)の大火を経て、資料はほとんど残っていないものの、「縄文時代から温泉が湧き出ていた」という遺跡調査の結果や、「源頼朝が建久2年(1191)に鷹狩りで訪れた」などという記録も残る。宿の創業は、少なくとも文禄年間(1592~1596)とのこと。歴史ある温泉地だが、現在はとてものどかな印象を受ける。
名物の大浴場は昭和22年(1947)築の総檜造りで、古きよき湯治場の風情を残す。珍しい混浴スタイルは全国的にも貴重で、高い天井に木で造られた換気口があり、木枠の窓から朝の光が差し込んでくる。何重奏にも聴こえる鳥のさえずりが心地いい。
「先代は大浴場のメンテナンスのために、山1つ分の檜の材木を買い占めて、倉庫に保管していました。古いお風呂を守るということはお金もかかるし、並大抵のことではないんです」と智さん。
以前は日帰り入浴を受け付けていたが現在は宿泊のみに変えた。その分お湯の質にこだわり、すべての浴槽の循環器をはずして、源泉かけ流しとした。
光を自在に操る設計で婦人風呂をリニューアル
大浴場の雰囲気を守り続ける一方で、2015年には婦人風呂を建て替えた。設計は、数々の建築賞やデザイン賞を受賞する東京都渋谷区の久保都島(つしま)建築設計事務所。浴室の高い天井に木板が美しい曲線を描き、天窓から差し込んだやわらかな光が無色透明の湯を際立たせる。
「『設計が難しすぎて、申し訳ないけれどできない』と地元の大工さん5・6社に断られちゃって……」
一度は諦めたが、最終的に前橋の大工さんの手により完成をみた。湾曲する天井の表面には釘が見えず、この風呂を見た人はみな、感嘆の声を上げるという。ちなみに大浴場が女性専用になる時間帯は、婦人風呂は男性専用風呂に変わるので、男性も入浴可能だ。
コロナ禍後は、金~日曜宿泊の週4日営業に変更した。掃除もチェックイン・アウトの対応も料理出しも、すべて智さんの仕事だから、日々大わらわ。銀行員時代には数値管理は当たり前だったが、「宿経営はどんぶり勘定くらいがちょうどいい」と考え方も変わった。
「このお湯は絶対にいい。沢渡の湯を守っていれば、食いっぱぐれないから大丈夫」
先代からそういわれたとおり、震災やコロナで大変な時も、お湯に導かれるようにやってくるお客が途切れることはなく、お湯に助けられて生きてきた。智さんはこれからも粉骨砕身の気持ちでお湯を守り続ける。
『まるほん旅館』の詳細
取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2023年8月号より