史跡の記事一覧

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茨城県常陸大宮市~森林と農地が交錯し、清流が彩りを添える~
栃木県に接し、八溝(やみぞ)山地の東麓に位置する茨城県北西部の常陸(ひたち)大宮市。2004年、大宮町・山方(やまがた)町・美和(みわ)村・緒川(おがわ)村・御前山(ごぜんやま)村の5町村が合併し、新たな市としてスタートを切った経緯もあり、県内の自治体では2番目に広い面積を有するという。たしかに市内の隣接地域へ足を運ぶ際、山あいを縫うように進み、いくつもの起伏を越えて、ようやくたどり着くことも少なくない。地域それぞれが異なる表情を見せ、さらに一級河川の久慈川・那珂(なか)川が彩りを添える市内を縦横無尽に巡ると、あたかも複数の市町村をハシゴしたようで、その分達成感も大きい。
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黎明期から力を合わせ歩んだ和田義盛。その力を恐れた北条義時の挑発で和田合戦が勃発す
源頼朝が亡くなった後、鎌倉で実質的に政治を仕切っていたのは北条時政であった。時政が執権となり、政治を動かすようになって以来、有力御家人であった梶原景時、比企能員、畠山重忠らが滅ぼされ、権力は一気に北条氏へと集まった。ところが元久2年(1205)閏7月、江間義時が父の時政を伊豆に追放し、北条家を継承する。義時が北条姓を使いだしたのは、これ以後であった。これにより義時が北条家の正当な後継者だということを、内外にアピールしたのである。義時が権力を継承した後、北条氏に目をつけられた有力御家人が、大河ドラマ内では“癒し系”の武将として描かれている、和田義盛であった。義盛は頼朝の挙兵以来、ほとんどの戦いに参加し、多大な功績を挙げている。彼はなぜ義時に狙われてしまったのか。その背景を考えつつ、義盛ゆかりの地を辿ってみたい。
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【週末民話研究】江戸の怪談「本所七不思議」を巡る
墨田区には「本所七不思議パネル」なるものがあり、「本所七不思議(ほんじょななふしぎ)」をモチーフにした壁画を見ることができるとのこと。本所七不思議とは、江戸時代から伝わる本所(東京都墨田区)の怪談話のことを指します。「おいてけ〜おいてけ〜」で有名な怪談「おいてけ堀」や、「落葉なき椎」「足洗邸」など、伝承によっては7つ以上のエピソードもあるのだそうです。
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【週末民話研究】源頼朝の死の原因と茅ヶ崎市の遺跡「旧相模川橋脚」
茅ヶ崎市にある「旧相模川橋脚」は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災とその余震によって水田に突如現れた鎌倉時代の橋の橋脚です。当時の歴史学者の調査によって、この橋脚は建久9年(1198年)に架けられた橋の脚部分であると判明。大正15年(1926年)には国の史跡に指定され、平成24年(2012年)には関東大震災当時の液状化現象の痕跡を残す遺産として国の天然記念物にも指定されました。歴史遺産と天然記念物、二つの側面で重要な遺構となっている旧相模川橋脚ですが、ここには複数の言い伝えがあります。そしてどうやらその中には源頼朝の死因に関わっている話が存在するらしいのです。
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名古屋城に来てちょうよ!!名古屋おもてなし武将隊・前田利家が見どころを紹介いたす!
「尾張名古屋は城で持つ」この言の葉を耳にしたことはあろうか。江戸時代に流行した伊勢音頭の一節で、尾張繁栄の中心に豪華絢爛な名古屋城があったことを示した唄である。尾張は現世において最新鋭の技術の礎を担い、商工業の町として知られておるが、名古屋城を始めとした歴史・文化の重要な史跡も多く残る町でもある。此度は名古屋城と名古屋の歴史にまつわる観光地を紹介してゆこう。先ず前編では名古屋城の見どころを御案内いたす!では、いざ参らん!!
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【週末民話研究】横浜市営地下鉄踊場駅に伝わる「猫の踊場」
横浜市営地下鉄ブルーラインには「踊場」という駅があります。「関東の駅百選」にも認定されている踊場駅。この駅名は「夜な夜な猫たちが手ぬぐいをかぶって踊っていた場所」というなんとも可愛らしい民話が由来になっていて、現在の踊場駅の構内外には猫モチーフのモニュメントがそこかしこに見られるそうです。駅近くには猫の霊を供養する「寒念仏供養塔」も存在していると聞き、実際に訪れてみることにしました。
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花手水と足袋の町へ!~忍城おもてなし甲冑隊が語る埼玉県行田市 後編~
「行田の魅力を語るシリーズ、後編!」前編では我が居城である忍城について案内致しました、どうも成田長親です。埼玉県には凄い歴史があるってもっともっと知ってほしいね。令和の時代となった今も行田市にその面影が残っているので是非遊びに来て下さいよ。ただ、行田市の魅力ってそれだけではないのだよね~。
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坂東武士の鑑・畠山重忠の生誕地と終焉の地を巡る
『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は格別の存在、理想の武士とされ、かなり美化された存在に描かれている。重忠は長寛2年(1164)、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の深谷市畠山)で生まれた。畠山氏は桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏のひとつ、秩父氏の一族であった。治承4年(1180)の源頼朝挙兵に際して重忠は、父の重能が大番役として京に上っていたこともあり、最初こそ頼朝に敵対。三浦氏の本拠地である衣笠城を攻め落とした。しかし房総半島で再起を果たした頼朝が武蔵国に進軍して来ると、頼朝に帰服している。その後はたびたび軍功を立て、頼朝から絶大な信頼を得ていた。それは戦上手なだけでなく、文武両道に優れ、謹厳実直で情けを知る、まさに「坂東武士の鑑」であったことも、重用された要因だったと思われる。まずはそんな重忠のルーツ、埼玉県深谷市に残る生誕の地へと足を運んでみよう。
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思い出となったお茶の水橋に現れた過去の都電の軌条
今回は撤去されて思い出となった「廃もの」を紹介します。会いたくても会えない、過去の話です。2019年の終わり、ひとつのニュースがありました。千代田区の中央線御茶ノ水駅に隣接した道路橋の「お茶の水橋」補修工事中、アスファルトを剥がしたら2本のレールと御影石の敷石……。都電の軌条が見つかったのです。都心に突如現れた廃線跡の遺構。しかも何十年もアスファルトで覆われていたため、廃止時のほぼ完璧な姿で現れたというものです。まるで高輪築堤のような状況です。
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【週末民話研究】源義家が鎧を沈めたとされる、日本橋兜町「鎧の渡し」
日本橋にあった「鎧の渡し」は、江戸時代に渡船場として機能し、歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれた名所でした。明治5年(1872)には橋(鎧橋)が完成し、渡船場自体はなくなってしまいましたが、跡地には現在もこの場所の歴史を語る看板がたてられています。そんな鎧の渡しですが、ここにはどうやら源義家にまつわる伝説があるようです。その伝説の生まれた時代は、歌川広重が名所として描いた江戸時代よりもはるか昔、平安時代後期にまでさかのぼることになります。
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阿佐ケ谷駅からはじめる阿佐ケ谷・高円寺さんぽ〜商店街と公園を行ったり来たり……〜
夏は七夕祭りでにぎわう阿佐ケ谷パールセンターや、阿波おどりで有名な高円寺の商店街を巡る商店街さんぽを中心に、善福寺川の自然を楽しむ川沿い散策。途中、古刹や古社を巡りながら、杉並区の2大人気エリアの魅力を余すところなく楽しむ。
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浮き城とはなんだ?浮かれた城代がいたからではない……。~のぼうさまが語る埼玉県行田市 前編~
______________________________________土地を知り尽くした地元の英雄(ヒーロー) たちと街を歩こう。コロナ禍が終わったらぜひ来てほしい名所名跡を、各地の英雄たちが散歩しながらご案内。 離れていても街の魅力を伝えたい!そんな想いとともに、各地のとっておきのスポットを紹介します。第1回は行田市で活躍するあの方に、行田の名所について語っていただきました!______________________________________ 埼玉県には戦国時代に天下統一を果たした豊臣秀吉が唯一落とせなかった城があったのだ。その名は忍城。そんなお城と城下の人、食、文化を紹介していこうではないか。読んでいるそこのキミも絶対この町に来たくなるハズ。先ずは前編として行田のシンボル的存在、忍城を案内しよう!
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【週末民話研究】仏教を学び、お坊さんになりたかった狐の話
民話の中で狐や狸は人を化かすイメージがありますが、実際は狐や狸の全員が悪戯ばかりをしているわけではないようです。その証拠として「人に化けて澤蔵司(たくぞうす)と名乗り、修行僧として仏教を学んだ狐がいた」という民話があります。彼は現在、東京都文京区小石川にある『慈眼院 澤蔵司稲荷(じげんいんたくぞうすいなり)』で稲荷神として祀られているそうです。民話を辿りつつ、実際に澤蔵司ゆかりの地を訪れてみることにしました。
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頼朝行列が練り歩いた三島周辺に、ひっそりと残る仁田忠常の墓
去る8月15日から17日までの3日間、静岡県三島市で3年ぶりに「三嶋大祭り」が開催された。多くの市民が待ちに待った夏祭り開催だっただけに、その熱気はいやが上にも高まった。しかも16日に行われた恒例の「頼朝公旗挙げ行列」は、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で頼朝を演じた大泉洋さんが頼朝役で参加したため、例年以上に盛況を極めた。さらに安達盛長役の野添義弘さん、源範頼役の迫田孝也さん、仁田忠常役の高岸宏行さんがドラマと同じ役どころで参加。沿道を埋め尽くした人々に、盛んに手を振ってくれただけでなく声までかけてくれ、祭りを大いに盛り上げてくれた。この行列を見送った後、ふと頭をよぎったのが、この行列が行われた8月16日の時点で、ドラマ内で存命なのは高岸さん演じる仁田忠常ただ一人、ということだ(三嶋大祭り開催時点では)。ということで、仁田忠常という人物にスポットを当てつつ、三島市に残る頼朝の足跡を辿ってみたい。
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栃木県上三川町 ~水面を渡る風が心地よい、川が育んだ風土に感嘆~
宇都宮市の南に位置する上三川町。てっきり“かみみかわ”と思っていたが、“かみのかわ”だと最近知った。由来を町の教育委員会に尋ねると、平安期の辞書『和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう) 』に「三川郷」の名が記され、“みのかわごう”と呼ばれたのが語源ではないかとの回答を得たが、推測の域を出ないという。そもそも「三川」が何を指すのかも定かでないが、町内を流れ下る鬼怒川・江川・田川が、肥沃(ひよく)な地を育んだ点は間違いなさそうだ。起伏に乏しい土地柄もあり、隠れた魅力に気づきにくいが、川の流れが生んだ心休まる風景は、訪れる者にとって一服の清涼剤となっている。
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炭坑施設の建物群と、崩れゆく30号棟【軍艦島観察記・最終回】
軍艦島ツアーのレポートは今回の4回目がラストです。さっそく巡っていきましょう。埋立拡張された護岸の構造を見ながら見学通路を進みます。左手は背丈以上の護岸。右手は鍛治工場、製缶場、坑内機械工場など、炭坑を支える工場の遺構があります。これらの建物群は半ば崩壊しているので、現役のころの全容は想像しにくいですが、2~3階建ての工場であったことが判別できます。コンクリート部分以外は、木造や鉄骨の建屋があったのでしょう。それらはすでに風化して消えています。地面は足の踏み場もないほど瓦礫が散乱しています。風雨などによってここまで瓦礫が散乱しているとなると、自然の猛威はすさまじいと思わずにいられません。
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軍艦島の竪坑(たてこう)、護岸を観察する。【軍艦島観察記その3】
前号からちょっと間があきましたが、今回は見学コースをじっくり観察しながら堪能します。で、じっくりすぎてこの号では終わらないという、案の定の展開となってしまいました。今号は護岸の構造までご案内し、次号で本当の〆といたします。第1見学広場でガイドさんのトークに耳を傾けつつ、周囲の遺構が気になって仕方ありません。一人落ち着きなく見学場内をフラフラしていると、次の第2見学広場へ移動となります。見学通路はなるべく遺構に影響のないようコンクリートの小道が整備され、柵で仕切られています。遊園地のアトラクションを見学するような感覚です。
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頼朝亡き後の悲しき骨肉の争い。阿野全成の粛清、そして2代将軍頼家の終焉の地・修善寺を歩く
源頼朝亡き後の鎌倉は、おどろおどろしいまでの権力闘争が繰り広げられることになってしまう。最初に狙われたのは、頼朝やその後を継いだ源頼家から絶大な信頼を得ていた梶原景時であった。続いて比企一族が粛清されると、鎌倉は北条時政の天下のような状況となる。権力欲に取り憑かれた時政の次なるターゲットは、自らの孫である源頼家だった。
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【週末民話研究】徳川吉宗も興味を示した、鐘ヶ淵の沈鐘伝説
鐘ヶ淵(かねがふち)は、東京都墨田区北部の旧地名です。荒川区と墨田区の境界線である隅田川が大きく西から南に曲がる淀みの部分には、鐘ヶ淵の「沈鐘伝説」があり、一帯の旧地名と東武伊勢崎線・鐘ヶ淵駅の名前の由来となったとされています。この伝説に登場する鐘の正体には複数の説がありますが、代表的なものは3つ。①元和6年(1620年)に普門院という寺が移転する際、船で荷物を運搬している最中に落とした半鐘②長昌寺という寺の釣鐘が、享保5年(1720年)の洪水によって流されたもの③戦国時代に千葉氏が北条氏に敗れた際、千葉氏にゆかりのある瑞応寺の鐘が戦利品として北条氏に奪われた。しかしこれを船で運んでいたところ、鐘から突然奇妙な音がして川面が荒れはじめ、恐ろしくなった人たちは仕方なく川に鐘を沈めたいくつかの説があってなんだか謎に満ちた鐘ヶ淵の沈鐘伝説ですが、江戸時代にもこの謎に強い興味を示した人がいました。8代将軍の徳川吉宗です。
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源頼朝の急死により武家政権に亀裂が。御家人同士の熾烈な権力闘争始まる
建久10年(1199)1月、初の武家政権樹立の立役者にしてカリスマ的な存在であった源頼朝が急死する。直後に嫡男の頼家が二代目の鎌倉殿に就任するも、若年で経験不足、何よりカリスマ性は頼朝に遠く及ばなかったことから、ほどなく実権を制限されてしまった。その後、鎌倉では血生臭い事件が立て続けに勃発したのである。
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