鎌倉入りを果たした頼朝は御所を築く

清泉小学校の角に立つ「大倉幕府」の所在を示す石碑。
清泉小学校の角に立つ「大倉幕府」の所在を示す石碑。

治承4年(1180)8月23日、石橋山で大庭景親・伊東祐親の軍と戦い大敗を喫した頼朝は、土肥実平の手引きで真鶴半島から船で房総半島に逃げ延びた。だが房総半島に逃れた頼朝は、当地で千葉常胤、上総介広常らを味方につけ、わずか1カ月ほどで2万を越える大軍となる。そして同年10月6日、源氏の根拠地であった鎌倉入りを果たしたのだ。

鎌倉に入った頼朝は、まず由比の浜にあった由比若宮(元八幡)を町の中心に移している。これは康平6年(1063)、頼朝の先祖である源頼義が、氏神であった石清水八幡を遷し祀ったものだ。こうして町の中心に置かれたのが、現在の鶴岡八幡宮である。さらに頼朝は治承4年、八幡宮の東側に位置する大倉の地に、早くも政治の中枢となる御所(政庁)を置いた。頼朝ははじめ亀ヶ谷にあった父・義朝の旧跡に建てようとしたようだが、土地が狭かったために大倉の地が選ばれた。

ここまでは2022年3月20日までの大河ドラマでも描かれてきたことだ。

以後、大倉の地は2代頼家、3代実朝もここで政務を執り、嘉禄元年(1225)、北条政子や大江広元が亡くなるまで鎌倉の中心となっていた。御所の東西南北には門が設けられていたようで、現在でも西御門、東御門という地名が残されている。今回はまず、大倉幕府の跡地周辺へ、足を運ぶことにしよう。

散歩の起点となる鎌倉駅の東口。いつ訪れても賑やか。
散歩の起点となる鎌倉駅の東口。いつ訪れても賑やか。

御所の西御門跡から頼朝の墓地へ

鎌倉駅を東口から出たら、まずは鶴岡八幡宮に向かう。せっかくなら二の鳥居から段葛(だんかづら)を辿るのが、鎌倉らしい風情が感じられるのでおすすめだ。

段葛は若宮大路の中央に設けられた参詣道で、『吾妻鏡』などによると寿永元年(1182)3月、頼朝が妻政子の安産を祈願し、北条時政とはじめとする御家人たちに命じて造営したと推定されている。当時の姿は定かではないが、かつら石を置いて若宮大路よりも高く造られていたことから、後に置路、置石、作道などと呼ばれている。現在でも地名に置石が残されているほど。このような置路が残されているのは、全国でも鎌倉だけ、という貴重な遺構なのである。

段葛を辿って鶴岡八幡宮の三の鳥居前へ。
段葛を辿って鶴岡八幡宮の三の鳥居前へ。
鶴岡八幡宮は境内を抜けるだけでなく、きちんと参拝しよう。
鶴岡八幡宮は境内を抜けるだけでなく、きちんと参拝しよう。

三の鳥居をくぐり、鶴岡八幡宮にお参りした後、今度は東鳥居から出ると、すぐに横浜国立大学附属鎌倉小・中学校の脇に出る。そのまま学校の敷地に沿って道を辿ると、北東端に近い位置の樹木とフェンスでできた囲いの前に、「西御門」と記された石碑を発見。他には何も残されてはいないが、その辺りが御所の西端で、西側の門があった場所ということが体感できた。

横浜国大付属小中学校の東側フェンス前に立つ西御門跡地を示す石碑。
横浜国大付属小中学校の東側フェンス前に立つ西御門跡地を示す石碑。

石碑の先には東へ向かう道がぶつかっているので、今度はそちらを辿ろう。ひとブロック先まで歩くと、左手の奥に白旗神社が見える。

この神社の周辺には、もともと文治5年(1189)に聖観音を本尊とした、頼朝の持仏堂が建てられていた。頼朝は死後、この地に葬られている。正治2年(1200)に一周忌が行われ、その時に持仏堂が法華堂となった。しかし今ではその法華堂も残されておらず、頼朝の墓だけが残されている。

現在残されている頼朝の墓塔は、安永8年(1779)に頼朝の子孫と称していた薩摩藩主・島津重豪が新たに建立したもので、平成2年(1990)に補修されている。頼朝の墓の手前あたりから山の斜面となっているところから考えると、白旗神社が立つあたりが御所の北端であったと思われる。

明治になり建立された白旗神社。
明治になり建立された白旗神社。
神社から石段を登ると法華堂跡とされる平場があり。
神社から石段を登ると法華堂跡とされる平場があり。
法華堂跡の一画に立つ源頼朝の墓。
法華堂跡の一画に立つ源頼朝の墓。

御所は小学校の敷地が2つは入る大きさ

頼朝の墓から離れて少し歩くと、今度は北条義時の法華堂跡(墳墓堂)へと登る石段が現れる。『吾妻鏡』によれば、当時の新たな権力者として義時は、頼朝の法華堂より東側の山上を墳墓の地と定めていて、実際に貞応3年(1224)に没すると、そこに“新法華堂”が建てられたらしい。

石段を登ると、上にはかなり広い平場となっている。北条義時の墓の場所は長らく不明だったが、平成17年(2005)の発掘調査では、一辺が8.4mの正方形をした建物跡が確認された。これにより『吾妻鏡』の記述の裏付けがとれたわけだ。

頼朝の法華堂の東側には北条義時の新法華堂跡が発掘された。
頼朝の法華堂の東側には北条義時の新法華堂跡が発掘された。

平場の奥には石鳥居と、さらに上へと続く石段も見える。それは鎌倉幕府初代政所別当・大江広元の墓へと続いている。石段は急でかなり狭いため、無理に登るのはおすすめしない。足に自信がある人のみに留めておこう。ちなみに上にはやぐらのような墓穴が3つ並んでいる。崩落の危険があるので、中は覗けないが、大江広元の墓は中央である。

左側石段の上に大江広元の墓がある。
左側石段の上に大江広元の墓がある。
写真では2つしか写っていないが、墓は3つ並んでいる。真ん中(写真では右)が大江広元の墓。
写真では2つしか写っていないが、墓は3つ並んでいる。真ん中(写真では右)が大江広元の墓。

新法華堂跡から下る道はもうひとつあり、そちら側から下ると幕末の長州藩士・村田清風の句碑がある。これは清風が文政6年(1823)、大江広元の墓の修理のために鎌倉にやって来た際に詠まれた句で、鎌倉にある大石家に伝えられていたものだ。

法華堂跡に続く石段は緩急2つある。下りは緩い勾配の方を選ぶ。
法華堂跡に続く石段は緩急2つある。下りは緩い勾配の方を選ぶ。
下りた場所には村田清風の句碑が。大江広元は毛利家の祖なのだ。
下りた場所には村田清風の句碑が。大江広元は毛利家の祖なのだ。

そこからは左手側、人しか通れない小径を辿る。再び通りに出たところで、今度は右へ。しばらく進むと「東御門」の石碑が建っていた。そして右手にある清泉小学校の南西角には、「大倉幕府跡」の石碑が建てられている。そこが御所の正面だとすると、御所は小学校の敷地2つ分程度の広さだったと思われる。

句碑から続く小径を辿っていく。
句碑から続く小径を辿っていく。
再び広い道に出ると東御門跡地を示す石碑があり。
再び広い道に出ると東御門跡地を示す石碑があり。
大倉幕府跡地の石碑が立つ辺りの街並みは、散策していて楽しい雰囲気。
大倉幕府跡地の石碑が立つ辺りの街並みは、散策していて楽しい雰囲気。

鬼門を守る天神社から2つの御所跡へ

東御門の跡地まで来たら、もう少し駅から離れた場所まで足を延ばそう。そこは平安時代後期、菅原道真公を祭神として創建された荏柄天神社だ。頼朝が幕府を開く際、鬼門となる方角を守護する神として崇敬したと伝わる。それだけでなく、2代将軍頼家も、道真公300年忌を盛大に挙行した。

現在では受験の合格祈願や針供養に訪れる人が後を絶たない。境内には154名の漫画家が描いたかっぱのレリーフが飾られた絵筆塚もある。知っている漫画家の絵柄を探してみるのも一興かも。

松の大木が鳥居のようになっている荏柄天神社。
松の大木が鳥居のようになっている荏柄天神社。
受験シーズンは人の姿が絶えないという。
受験シーズンは人の姿が絶えないという。
漫画家作製のレリーフがはまる絵筆塚。
漫画家作製のレリーフがはまる絵筆塚。

嘉禄元年(1225)、北条政子と大江広元が亡くなった。その前年には二代執権を務めた北条義時もこの世を去っていたことから、世代交代が一気に進む。それを受け3代執権となっていた北条泰時が中心となり、幕政の中心となる政庁を宇津宮辻子に移転した。そこは二の鳥居から鶴岡八幡宮に向かって100mほど向かった右側一帯、現在の雪ノ下カトリック教会の付近一帯と推定されている。現在は宇津宮稲荷が祀られていて、その境内の一画に石碑がある。

ところがそれからわずか11年後の嘉禎2年(1236)、再び泰時によって政庁所在地が若宮大路に移された。4代将軍藤原頼経の周囲で不幸が続いたから土地を変えた、という説がある。宇津宮辻子幕府跡から北に200mほど行った小道の辻に、碑が建てられていて、ここから鶴岡八幡宮の三の鳥居まではすぐ。この場所には元弘3年(1333)、新田義貞に攻められ鎌倉幕府が滅びるまでの97年間、政庁が置かれていた。

荏柄天神社から訪れる順番としては、先に若宮大路幕府跡、最後に宇津宮辻子幕府跡というのがいいだろう。宇津宮辻子幕府跡から鎌倉駅までは10分ほどなので、疲れていても踏ん張れるはず。

若宮大路幕府跡へ向かう路地。こんな雰囲気もいい。
若宮大路幕府跡へ向かう路地。こんな雰囲気もいい。
若宮大路幕府跡。こうした風景が、最も鎌倉らしさを感じさせる。
若宮大路幕府跡。こうした風景が、最も鎌倉らしさを感じさせる。
鎌倉駅からほど近い宇津宮辻子幕府跡。
鎌倉駅からほど近い宇津宮辻子幕府跡。

今回訪ねた幕府関連の史跡は、派手さこそないが古都らしい落ち着いていて素朴な街並みの中を散策しながら訪れることができる。ゆっくり歩いても3時間程度ですべてを回れるので、鎌倉史跡散歩の手始めにも最適かも知れない。

次回は「これぞ鎌倉!」という銭洗弁天を含む、王道コースを一周してみたい。

取材・文・撮影=野田伊豆守