「金メダルを取るにはこれではだめだ!」。体育学校一期生のウエイトリフティング選手・三宅義信さんは数箇月で辞めようとした。
「専用道場もなく風呂場の軒下で練習しました」と三宅さん。「食事は麦飯に菜っぱ汁。自衛隊員と同じ食堂で食べるのに何百人も並び、練習にしばしば遅れて叱られました」。
周囲に説得されて三宅さんは復帰。少しずつ練習環境も改善していった。マラソンの円谷幸吉選手が走るグラウンドは第2教育課選手職員が総出で造成を手伝い、機運を盛り上げた。
そして1964年東京大会。当校から20名もの選手が出場。三宅さんの金メダルに円谷幸吉選手のマラソン銅メダルと見事な成績を生んだ。
国際レベルの選手を育てる自衛隊は実は温かな場所
現在当校はウエイトリフティング部など11種目と冬季競技2種目の選手を育成する。発足当時は国内で選手育成機関が整っていない競技や、射撃など自衛隊として得意な種目を担当したようだ。
実は東京大会自体、組織的に動ける自衛隊が運営の縁の下の力持ちを担っていた。航空自衛隊ブルーインパルスが大空に五輪を描いたのは有名だ。国際級選手育成機関の発足も、その延長線上に考えられたらしい。
夏季オリンピック選手が所属するのは、第2教育課だ。入学には学生時代に優秀な成績を収めた選手のスカウト、それから自衛隊入隊後にその才能を認められるという2通りの方法がある。広報班長の川元さんは、「最優秀選手は莫大な契約金のある企業へ行きがちですが、うちには契約金はなく自衛隊員としての給与だけ。でも整った環境でじっくり育て上げるのが醍醐味です」。
一番大きな魅力は引退後だ。自衛隊員という身分保障があるのだ。当校校長まで務めた三宅さんはもとより、話を聞いた福崎道大さんも元レスリング選手だった。現在は選手用特別食堂で特別食調理と配膳担当。
「食が細くなって減量が始まったな、とか、逆に体重を増やす選手は大変だ」と自ら経験者の福崎さん。
職員は選手経験者だけではなく、全国から異動で任務に就く自衛官だ。選手送迎を担う輸送班の十文字拓真さんは「負けた選手には声をかけづらいです」。それでも礼儀正しく「ありがとうございました」と挨拶する選手たちを心から応援したくなる。
世界の宝をみんなで見守る、そんな温かな場所がこの学校なのだ。
取材・文=眞鍋じゅんこ 撮影=鴇田康則
『散歩の達人』2021年5月号より