蝉時雨の公園を通った先に千鳥ヶ淵の砲台跡がある

戦跡巡りや研究の書物では「千鳥ヶ淵の砲台跡」「北の丸公園の砲台跡」などと記されている砲台跡は、近衛師団の施設内にありました。配備されていたのは、近衛機関砲第一大隊だということです。皇居を空から防衛するために機関砲が配備されていました。

毎度おなじみの「国土変遷アーカイブ」では、1947年米軍撮影航空写真でもくっきりと高射砲台の陣地が写っています。

1947年前後に全国を空撮した米軍写真には、まだ旧軍施設が無くなる前の姿が詳細に写されているので、戦跡を巡るときの参考になります。

上記2写真は1947年撮影の航空写真。下写真が拡大で、矢印の部分に砲台の陣地跡が確認できる。首都高速が建設される前、千鳥ヶ淵には近衛師団関連の建物が沢山あった。
上記2写真は1947年撮影の航空写真。下写真が拡大で、矢印の部分に砲台の陣地跡が確認できる。首都高速が建設される前、千鳥ヶ淵には近衛師団関連の建物が沢山あった。

近衛師団司令部のレンガ建物の先にコンクリート構造物がある

千鳥ヶ淵の砲台跡は代官町通りを歩いて行きます。すると、その前に現れるのは、東京国立近代美術館分室の瀟洒(しょうしゃ)なるレンガ建物です。

明治43(1910)年築のレンガ建物は、近衛師団司令部であった建物で、終戦前夜の「宮城事件」が起こった現場の1カ所です。陸軍省将校の一部と近衛師団参謀らによる降伏阻止のクーデターが企てられ、この建物内では森近衛第一師団長が殺害されました。宮城事件は半藤一利の著作『日本のいちばん長い日』や、同名映画が有名ですね。

公園を抜け、首都高速北の丸ランプ付近の歩道に近衛師団司令部であったレンガ建物がひっそりと佇む。
公園を抜け、首都高速北の丸ランプ付近の歩道に近衛師団司令部であったレンガ建物がひっそりと佇む。
通風孔には陸軍の印を示す星のマークがかたどられていた。
通風孔には陸軍の印を示す星のマークがかたどられていた。

終戦前夜の事件が生々しく記憶されているレンガ建物は、1972年に重要文化財となっています。現在は東京国立近代美術館分室が移転したために閉館中とのこと。訪れた時は17時を回っていたこともあり、どのみち門が閉ざされていました。

近衛師団司令部のすぐ脇は、終戦直後は近衛師団の建物が点在していたのですが、その面影は一切なく、首都高速道路となっています。首都高速環状線が通り、自動車の往来も絶えずにぎやかな場所です。

近衛師団司令部のすぐ脇には首都高速環状線が通っている。首都高速が建設されるまではこの辺りにも建物があった。上記の1947年航空写真を参照されたい。
近衛師団司令部のすぐ脇には首都高速環状線が通っている。首都高速が建設されるまではこの辺りにも建物があった。上記の1947年航空写真を参照されたい。
振り返ってレンガ建物を見つめる。真下には首都高速があるものの、こうして生垣越しに見ると緑豊かな場所に建つ瀟洒なる洋館と思えてくる。終戦前夜、この一帯で日本の将来を左右させる事件が起きていた。
振り返ってレンガ建物を見つめる。真下には首都高速があるものの、こうして生垣越しに見ると緑豊かな場所に建つ瀟洒なる洋館と思えてくる。終戦前夜、この一帯で日本の将来を左右させる事件が起きていた。

目的地まではもう少し。代官町通りを歩きながら左手に皇居とランナーを見つつ、右側は土手になってきました。松の木が点在し、土塁のようにも見えます。土手は柵が設けてあって立入禁止なのですが、樹木の立派な根の傍らに、何やらコンクリートの構造物が顔を覗(のぞ)かせていました。

夕刻迫るとき、地面が闇に包まれていく。少々分かりづらいが、こんもりとした土手のような土塁のようなものが目の前に現れる。
夕刻迫るとき、地面が闇に包まれていく。少々分かりづらいが、こんもりとした土手のような土塁のようなものが目の前に現れる。
樹木の根っこ付近を凝視すると、何やらコンクリート構造物が顔を出している。ちょうど親子が虫取りをしていた。夏休みらしい光景の中に遺構があった。
樹木の根っこ付近を凝視すると、何やらコンクリート構造物が顔を出している。ちょうど親子が虫取りをしていた。夏休みらしい光景の中に遺構があった。

今まで戦跡をいくつか巡ってくると、この構造物が地下壕の入り口ではないかと直感が働きます。柵の内側なので近づいて確認できず、遠目から判断することになりますが、土手の中腹に見えるコンクリート構造物は、高さを目測するに170cmあるかどうか。床面は若干スロープがあったかと推測します。

身を守るための壕なのか、物資や弾薬を貯蔵する貯蔵庫だったのか。ただ、この先にある砲台跡と対して距離がないため、おそらく弾薬貯蔵庫ではなかったのかと思われます。

柵があるので体は近づけられないが、根っこの部分にレンズで寄ってみる。壕の入り口だろうか。堅牢そうなコンクリート構造物だ。
柵があるので体は近づけられないが、根っこの部分にレンズで寄ってみる。壕の入り口だろうか。堅牢そうなコンクリート構造物だ。
さらにズーム。入り口部分は完全に埋没し、戦後に植林された樹木の根っこがしっかりと張っている。戦時中はここから兵士や物資が行き交っていたのだろう。
さらにズーム。入り口部分は完全に埋没し、戦後に植林された樹木の根っこがしっかりと張っている。戦時中はここから兵士や物資が行き交っていたのだろう。

7基の砲台跡の台座がベンチとなって余生を迎えていた

土手にある階段を登ります。すると、左手の眼下には交通量の多い代官町通りがあります。例の米軍航空写真にも存在している道路ですね。

この一帯は終戦まで「宮城」と呼ばれる場所。おいそれと散策できるような場所ではありませんでした。78年後の2023年ではTシャツにサンダルでブラっと散歩できるのだから、時代は変わったものです。

土手の上を歩いていると、ほどなくちょっとした広場に出る。そこに点々と並んでいるベンチのような物体。
土手の上を歩いていると、ほどなくちょっとした広場に出る。そこに点々と並んでいるベンチのような物体。

そんなことを思っていると、夕刻迫る茜色の空と松が点々とする広場に出ました。

広場といっても、ちょっとした公園。そんな程度の広さです。ここが高射砲の陣地があった場所です。

点々と、何か円柱の腰掛けが7つあります。近づくと直径1mあるかないかのコンクリート製円柱。天面には石板が敷かれています。公園によくあるオブジェ化したベンチと見受けられますね。これらが砲台の台座跡です。

夕焼けに染まって輝く台座。現在は公園となっているが、戦時中は陣地が組まれて物々しい状態だったはず。
夕焼けに染まって輝く台座。現在は公園となっているが、戦時中は陣地が組まれて物々しい状態だったはず。
ここに陣地が組まれたのは昭和20年頃だという。78年前のコンクリートの材質が夕日に当たって凸凹としていた。
ここに陣地が組まれたのは昭和20年頃だという。78年前のコンクリートの材質が夕日に当たって凸凹としていた。

まじまじと観察すると、コンクリートの壁面は砂利の混じった粗っぽい目地となっており、何十年も前に作られたものと分かります。天面は座れるように石板で加工されているので、台座と砲を設置する部分が確認できません。それが限られた空間に7つ、砲台なので7基と言うべきでしょうか、点在しているのです。

でも、“高射砲”というには台座が小さいような? と思います。高射砲をイメージすると、大きな砲を構えて構造も大掛かりな武器で、高空から飛来する爆撃機を迎え撃つもの。ここに配備されたのは“高射機関砲”で、飛距離は高射砲より低く、どちらかというと低空で侵入する戦闘機や攻撃機を迎え撃つものだったと考えます。

砲台は3基連続して並んでいる箇所があるかと思えば、若干ずれながら配置されているのもあった。
砲台は3基連続して並んでいる箇所があるかと思えば、若干ずれながら配置されているのもあった。
少し離れた位置にある台座。背後の代官町通りには皇居ランナーが和気あいあいとランをしていた。
少し離れた位置にある台座。背後の代官町通りには皇居ランナーが和気あいあいとランをしていた。

さらに配備されたのは九八式高射機関砲とのことで、調べるとこの機関砲は脚が3本伸びた状態で固定するタイプ。備えられていたのは違うタイプでは? ちょっと短期間では調べきることができませんでしたが、調査するのは時間があるときでいいかなぁと思って、答えは先延ばしにします。

日が落ちかける広場で、一基の台座に座ります。炎天下の暑さを吸収しきったコンクリートはまだ温かく、温度が肌に伝わってきます。汗が引くのを待とうと座り、沈みゆく夕日を眺めて今日も一日うだるような暑さだったなぁと、しばしボーっとしているのでした。

ふと、なぜ千鳥ヶ淵に高射機関砲の陣地が置かれたのか疑問に思いました。この陣地だけでは到底皇居を守り切れなかったのでしょう。近衛師団として守備するため、ここに陣地を設けたのかもしれませんね。しかし皇居内や周辺にも陣地があって、日本生命ビルの屋上に高射砲台が配備されていたことは、戦争を体験した世代から聞きました。また東京都内だけでも、防空の陣地は至るところにありました。久我山の高射砲台とか。

78年経過した現在、都内の陣地の痕跡を探すのは容易ならざることですが、まだひっそりと痕跡が残っているかもしれません。汗だくになる季節を過ぎたら、散策してみようかと思っています。

すっかりと公園のオブジェとして自然と一体化した砲座。平和のときを刻み、ベンチとして使用されているほうが幸せなのかもしれない。
すっかりと公園のオブジェとして自然と一体化した砲座。平和のときを刻み、ベンチとして使用されているほうが幸せなのかもしれない。

取材・文・撮影=吉永陽一