小堀(おおほり)の渡し
飛び地と結ぶ渡し船で利根川を水上さんぽ
利根川両岸を結ぶ市営渡船。明治から大正にかけて行われた利根川の改修工事によって、右岸に分断された小堀地区の住民が渡し船を出したのが始まり。バスが運行を始める20年ほど前まで、通勤通学や日常生活の足として活躍した。現在はほぼ観光客向け。対岸まで最短で7分ほどだが、時間に余裕を持ってのんびり1周するとよい。
●1航路200円(周回400円)。9:00~ 16:35(1日7便)。水休。茨城県取手市取手1ほか。
☎0297-74-2141(取手市水とみどりの課)
旧取手宿本陣 染野家住宅
烈公ら水戸徳川家の歴代藩主が利用した本陣建築
取手宿の名主を代々務めた染野家の住居。貞享4年(1687)に徳川光圀によって本陣に指定されたという。本陣部分と染野家の住居部分の造りの違いが興味深い。郵便局の窓口跡も必見。外部に面した明治初期の窓口は、郵便創業期の姿を伝える貴重なもの。
水戸街道
踏破を目指すなら5ルート歩くべし
参勤交代にも使われた重要な脇街道。旧街道の道筋は現在の国道6号に近いが、江戸時代初期には湿地帯の取手を避けて8㎞ほど南東の布佐・布川(現在の栄橋付近)で利根川を渡っていた。17世紀末の街道付け替えによって取手を通るようになり、江戸から6番目の宿駅としての取手宿が生まれた。ただし取手宿から小貝川の区間はよく水に浸かったため、本道西側に中通り道、椚木廻り道、大廻り道と3つの迂回路が用意されていた。旧街道完歩を目指す人は注意されたし。
本多作左衛門重次墳墓
短い手紙で知られる鬼作左(おにさくざ)ここに眠る
本多作左衛門重次(1529 ~ 1596)は、松平清康、広忠、家康まで3代にわたって仕えた徳川家の重臣。秀吉の怒りを買ったために、蟄居(ちっきょ)したこの地(当時の下総国相馬郡井野村)で亡くなった。本多重次が戦場から妻に宛てたとされる「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という日本一簡潔な手紙は、あまりにも有名。
●見学自由。茨城県取手市台宿2-3167。
安吾の足跡
居心地のよさが仇になり筆が進まなかった?
昭和14年(1939)5月、無頼派作家の坂口安吾(1906~1955)は傑作を書こうと決死の思いで都内のホテルから環境のよい取手に引っ越した。まず「伊勢甚旅館」に落ち着き、まもなく現在『セントラルホテル取手』(取手2-4-3)付近にあった病院の離れに移った。ところが釣りに舟遊び、昼寝、飲酒と怠惰に過ごす。傑作は書けなかったが8月には利根川の底から溺れた子供の水死体を引き上げる善行もあった。翌年1月、取手の冬の寒さに弱り小田原に移った。
伊勢利(いせり)
安吾も通っただろう取手屈指の老舗
天明2年(1782)から13代続くそば処。相馬霊場を開く際の功績で長禅寺の観覚光音(かんがくこうおん)禅師(伊勢屋源六)から屋号をもらい、宿の伊勢甚、雑貨商の伊勢源とともに創業したという。長禅寺にあやかった「大師弁当」はダルマ形の器を使った二段弁当。下段に具だくさんの温かい二八のそば、上段に天ぷらや煮物とご飯が詰まっている。
新六本店
国産素材を使い、本蔵で熟成発酵食品「奈良漬」
丹精を込めて造られる奈良漬は、ウリなど利根川流域で育まれた新鮮な地の野菜を使用。厳選した吟醸粕や味醂(みりん)粕を用いて木樽に漬け込み、土蔵でゆっくりと熟成させる。芳醇な風味は生貯蔵、生出荷だからこそ。シャリっとみずみずしい歯ごたえ、ほどよい甘さ、さわやかな香りが楽しめる。
稲戸井村道路元標
歴史街道にある異形な道路元標
現在の取手市域にはかつて10基程度の道路元標があったはずだが、現在も元の場所にそのまま立つのはこの1基のみ。前の道路は水戸街道の脇往還(わきおうかん)だった布施街道。新大利根橋付近に昭和30年代まであった七里ケ渡しで利根川を渡っていた。幕末には近藤勇を失った新選組の土方歳三が、ここを通って会津に向かっている。
●見学自由。茨城県取手市花輪戸頭神社前。
取手一周サイクリング
水辺をのんびり走り「とりいち」を満喫
三方を利根川と小貝川に囲まれた取手市。市境の川べりをぐるり1周すると約40㎞、有名な霞ケ浦1周サイクリング「かすいち」の1/3ほどだ。レンタサイクルは取手駅から徒歩5分、JR常磐線下流側堤防上の『利根川サイクルステーション』で。子供用、子供台付きなど各種ある。電動アシスト付きを狙うならお早めに。