史跡の記事一覧

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東京駅からはじまる「江戸へタイムスリップ!江戸ツアー」~さんサポの散歩コース実踏①~
「さんサポから散歩コースを募集して、編集部が実際に歩いてみるのはどうでしょう?」すべての始まりは、さんたつ編集部のブレーン・シラタキのこのひと言だった。さんたつ3周年という節目のタイミングで、さんたつ公式サポーターと何かできないだろうか……。そんな話し合いをしている中で、「散歩コース実踏」企画は生まれた。とっておきの散歩コースをお寄せくださったさんサポのみなさん、ありがとうございました!今回は、サポーターネーム・えりさままさん考案の「江戸へタイムスリップ!江戸ツアー」実踏の模様をお届けします。文=阿部修作(さんたつ編集部) 
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【週末民話研究】神田川・面影橋に伝わる悲話と山吹の里の碑
都営荒川線・面影橋停留場のそばを流れる神田川には、「面影橋(おもかげばし)」という停留場名と同じ名前の橋があります。面影橋は承応年間(1652〜1655年)の神田上水工事の際にかけられたといわれ、ここから下流の江戸川橋までの一帯は「山吹の里」と言い、江戸時代には蛍の名所として知られていたそうです。名前からどこか儚い印象を受けるこの面影橋には、この地に住まう武士の娘・於戸姫(おとひめ)の悲しい言い伝えが残っています。
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群馬県昭和村~名だたる山々が見守る“やさい王国”の恵みに敬服~
上毛(じょうもう)三山の1つ赤城山。その西北麓に扇状に広がるのが昭和村だ。片品(かたしな)川や利根川が生んだ河岸段丘界隈に行政機能や寺社などが集まる一方、高原地帯の傾斜地ではどこまでも畑が広がる。“やさい王国”“首都圏の台所”といったキャッチフレーズがよく似合う光景といえるだろう。反面、現地で目に留まったのが灌漑(かんがい)用水の完成を祝う記念碑の多さだ。第二次大戦後に開拓が始まった地域の大半では水不足に悩まされ、苦難の末、“やさい王国”の基盤を固めた。自然と人の力が育んだ「日本で最も美しい村」に身を置くと、先人の労苦に頭が下がる思いである。
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非業の死を遂げた三代将軍・源実朝。その歌人としての才を偲ぶ、鎌倉歌碑巡り
源頼朝の跡を継ぎ2代鎌倉殿となった頼家は建仁3年(1203)、比企の変に関連して将軍職を追われてしまう。その後、弟の実朝がわずか12歳で3代鎌倉殿の地位に就いた。まだ幼かった頃は、実際の政治は北条氏を筆頭に、重臣たちが執り行っていた。しかし長ずるにつれ政治に関与することも増えてゆき、それとともに官位も高くなっていく。実朝は歌人として優れた才能を発揮し、92首が勅撰和歌集に選ばれたほどの名人であった。本来ならば武家の棟梁は兄に務めてもらい、自らは文化人として生きることを望んでいたのかも知れない。今回は鎌倉に建立された実朝歌碑を訪ね、その才に触れてみたい。
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【週末民話研究】悪行に手を染めた商人が辿った人生「中野長者伝説」
中野区には「中野長者伝説」という伝説が残り、語り継がれています。主人公は「中野長者」と呼ばれた商人・鈴木九郎という、室町時代に実在した人物。このお話のどこまでが本当のことで、どこまでが本当のことではないのか……。今回は境界線が曖昧になる不思議な感覚を味わいながら、中野長者・鈴木九郎ゆかりの地を歩いてみることにしましょう。
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大村湾ののどかな海に点在する旧海軍の遺構 片島魚雷発射試験場跡その2
前回は射場とポンプ所を中心に巡りました。後編は小山の頂上にある観測所を訪れます。観測所は射場でセットされたテスト魚雷を観測する場所で、発射指示を出して魚雷が発射されると、大村湾の沖合に1000m間隔で設置されたブイを目印にして、そこを通過する魚雷の速度(雷速)を測定したり、雷跡の状態を確認したりと、高所の位置を活かした観測をおこなっていました。
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城から飛び出し市内を散策!名古屋さんぽに参ろうぞ~名古屋おもてなし武将隊・前田利家が語る!
前田利家と行く名古屋旅、後編開幕である!!此度は名古屋城を飛び出し、名古屋の街に繰り出そうではないか!名古屋そして愛知県は工業の街。然れど織田信長様、豊臣秀吉、徳川家康殿からなる戦国三英傑をはじめ、数多の猛将を輩出した場所である。即ち戦国時代の文化に触れるにも誂(あつら)え向きであると言える。故に此度は歴史の趣と現世の華やかさの二刀流で名古屋を紹介致そうではないか!では前田利家と行く名古屋旅後編へといざ参らん!!
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大村湾ののどかな海に点在する旧海軍の遺構。片島魚雷発射試験場跡その1
2022年9月23日、西九州新幹線が開業しました。撮影のため私も九州入りし、せっかくだから廃なるものも見てみようと、新幹線の沿線から近い場所をリサーチしていました。大村湾のネット地図を見ていると川棚町に「片島魚雷発射試験場跡」という文字を発見。関連写真には、海に浮かぶコンクリートの建物。「探信儀領収試験場」という施設です。むむ……。この写真は見たことある。ああ、そうだ。いつか行きたいと思っていた場所だ。
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茨城県常陸大宮市~森林と農地が交錯し、清流が彩りを添える~
栃木県に接し、八溝(やみぞ)山地の東麓に位置する茨城県北西部の常陸(ひたち)大宮市。2004年、大宮町・山方(やまがた)町・美和(みわ)村・緒川(おがわ)村・御前山(ごぜんやま)村の5町村が合併し、新たな市としてスタートを切った経緯もあり、県内の自治体では2番目に広い面積を有するという。たしかに市内の隣接地域へ足を運ぶ際、山あいを縫うように進み、いくつもの起伏を越えて、ようやくたどり着くことも少なくない。地域それぞれが異なる表情を見せ、さらに一級河川の久慈川・那珂(なか)川が彩りを添える市内を縦横無尽に巡ると、あたかも複数の市町村をハシゴしたようで、その分達成感も大きい。
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黎明期から力を合わせ歩んだ和田義盛。その力を恐れた北条義時の挑発で和田合戦が勃発す
源頼朝が亡くなった後、鎌倉で実質的に政治を仕切っていたのは北条時政であった。時政が執権となり、政治を動かすようになって以来、有力御家人であった梶原景時、比企能員、畠山重忠らが滅ぼされ、権力は一気に北条氏へと集まった。ところが元久2年(1205)閏7月、江間義時が父の時政を伊豆に追放し、北条家を継承する。義時が北条姓を使いだしたのは、これ以後であった。これにより義時が北条家の正当な後継者だということを、内外にアピールしたのである。義時が権力を継承した後、北条氏に目をつけられた有力御家人が、大河ドラマ内では“癒し系”の武将として描かれている、和田義盛であった。義盛は頼朝の挙兵以来、ほとんどの戦いに参加し、多大な功績を挙げている。彼はなぜ義時に狙われてしまったのか。その背景を考えつつ、義盛ゆかりの地を辿ってみたい。
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【週末民話研究】江戸の怪談「本所七不思議」を巡る
墨田区には「本所七不思議パネル」なるものがあり、「本所七不思議(ほんじょななふしぎ)」をモチーフにした壁画を見ることができるとのこと。本所七不思議とは、江戸時代から伝わる本所(東京都墨田区)の怪談話のことを指します。「おいてけ〜おいてけ〜」で有名な怪談「おいてけ堀」や、「落葉なき椎」「足洗邸」など、伝承によっては7つ以上のエピソードもあるのだそうです。
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【週末民話研究】源頼朝の死の原因と茅ヶ崎市の遺跡「旧相模川橋脚」
茅ヶ崎市にある「旧相模川橋脚」は、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災とその余震によって水田に突如現れた鎌倉時代の橋の橋脚です。当時の歴史学者の調査によって、この橋脚は建久9年(1198年)に架けられた橋の脚部分であると判明。大正15年(1926年)には国の史跡に指定され、平成24年(2012年)には関東大震災当時の液状化現象の痕跡を残す遺産として国の天然記念物にも指定されました。歴史遺産と天然記念物、二つの側面で重要な遺構となっている旧相模川橋脚ですが、ここには複数の言い伝えがあります。そしてどうやらその中には源頼朝の死因に関わっている話が存在するらしいのです。
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名古屋城に来てちょうよ!!名古屋おもてなし武将隊・前田利家が見どころを紹介いたす!
『尾張名古屋は城で持つ』この言の葉を耳にしたことはあろうか。江戸時代に流行した伊勢音頭の一節で、尾張繁栄の中心に豪華絢爛な名古屋城があったことを示した唄である。尾張は現世において最新鋭の技術の礎を担い、商工業の町として知られておるが、名古屋城を始めとした歴史・文化の重要な史跡も多く残る町でもある。此度は名古屋城と名古屋の歴史にまつわる観光地を紹介してゆこう。先ず前編では名古屋城の見どころを御案内いたす!では、いざ参らん!!
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【週末民話研究】横浜市営地下鉄踊場駅に伝わる「猫の踊場」
横浜市営地下鉄ブルーラインには「踊場」という駅があります。「関東の駅百選」にも認定されている踊場駅。この駅名は「夜な夜な猫たちが手ぬぐいをかぶって踊っていた場所」というなんとも可愛らしい民話が由来になっていて、現在の踊場駅の構内外には猫モチーフのモニュメントがそこかしこに見られるそうです。駅近くには猫の霊を供養する「寒念仏供養塔」も存在していると聞き、実際に訪れてみることにしました。
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花手水と足袋の町へ!~忍城おもてなし甲冑隊が語る埼玉県行田市 後編~
「行田の魅力を語るシリーズ、後編!」前編では我が居城である忍城について案内致しました、どうも成田長親です。埼玉県には凄い歴史があるってもっともっと知ってほしいね。令和の時代となった今も行田市にその面影が残っているので是非遊びに来て下さいよ。ただ、行田市の魅力ってそれだけではないのだよね~。
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坂東武士の鑑・畠山重忠の生誕地と終焉の地を巡る
『吾妻鏡』によれば、畠山重忠は格別の存在、理想の武士とされ、かなり美化された存在に描かれている。重忠は長寛2年(1164)、武蔵国男衾郡畠山郷(現在の深谷市畠山)で生まれた。畠山氏は桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏のひとつ、秩父氏の一族であった。治承4年(1180)の源頼朝挙兵に際して重忠は、父の重能が大番役として京に上っていたこともあり、最初こそ頼朝に敵対。三浦氏の本拠地である衣笠城を攻め落とした。しかし房総半島で再起を果たした頼朝が武蔵国に進軍して来ると、頼朝に帰服している。その後はたびたび軍功を立て、頼朝から絶大な信頼を得ていた。それは戦上手なだけでなく、文武両道に優れ、謹厳実直で情けを知る、まさに「坂東武士の鑑」であったことも、重用された要因だったと思われる。まずはそんな重忠のルーツ、埼玉県深谷市に残る生誕の地へと足を運んでみよう。
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思い出となったお茶の水橋に現れた過去の都電の軌条
今回は撤去されて思い出となった「廃もの」を紹介します。会いたくても会えない、過去の話です。2019年の終わり、ひとつのニュースがありました。千代田区の中央線御茶ノ水駅に隣接した道路橋の「お茶の水橋」補修工事中、アスファルトを剥がしたら2本のレールと御影石の敷石……。都電の軌条が見つかったのです。都心に突如現れた廃線跡の遺構。しかも何十年もアスファルトで覆われていたため、廃止時のほぼ完璧な姿で現れたというものです。まるで高輪築堤のような状況です。
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【週末民話研究】源義家が鎧を沈めたとされる、日本橋兜町「鎧の渡し」
日本橋にあった「鎧の渡し」は、江戸時代に渡船場として機能し、歌川広重の『名所江戸百景』にも描かれた名所でした。明治5年(1872)には橋(鎧橋)が完成し、渡船場自体はなくなってしまいましたが、跡地には現在もこの場所の歴史を語る看板がたてられています。そんな鎧の渡しですが、ここにはどうやら源義家にまつわる伝説があるようです。その伝説の生まれた時代は、歌川広重が名所として描いた江戸時代よりもはるか昔、平安時代後期にまでさかのぼることになります。
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阿佐ケ谷駅からはじめる阿佐ケ谷・高円寺さんぽ〜商店街と公園を行ったり来たり……〜
夏は七夕祭りでにぎわう阿佐ケ谷パールセンターや、阿波おどりで有名な高円寺の商店街を巡る商店街さんぽを中心に、善福寺川の自然を楽しむ川沿い散策。途中、古刹や古社を巡りながら、杉並区の2大人気エリアの魅力を余すところなく楽しむ。
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浮き城とはなんだ?浮かれた城代がいたからではない……。~のぼうさまが語る埼玉県行田市 前編~
______________________________________土地を知り尽くした地元の英雄(ヒーロー) たちと街を歩こう。コロナ禍が終わったらぜひ来てほしい名所名跡を、各地の英雄たちが散歩しながらご案内。 離れていても街の魅力を伝えたい!そんな想いとともに、各地のとっておきのスポットを紹介します。第1回は行田市で活躍するあの方に、行田の名所について語っていただきました!______________________________________ 埼玉県には戦国時代に天下統一を果たした豊臣秀吉が唯一落とせなかった城があったのだ。その名は忍城。そんなお城と城下の人、食、文化を紹介していこうではないか。読んでいるそこのキミも絶対この町に来たくなるハズ。先ずは前編として行田のシンボル的存在、忍城を案内しよう!
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