植村牧師の説得で、当時の3K不人気職業の“看護婦”になることを決意
トレインド・ナース(Trained Nurse)とは正式な看護教育を受けた看護婦(看護師)のことをいう。1860年にイギリスでナイチンゲール看護学校が設立されると、他国もこれに倣って続々と看護学校を開校した。患者の看護は専門的な教育を受けた医療技術者の仕事と、欧米ではそんな認識が広まっている。
それと比べて日本は遅れていた。病院は看護の知識や技術のない素人を雇い「看病婦」「看病人」と呼んで雇っていた。血や膿にまみれる不潔な仕事なだけに、不人気職業で成り手がいない。そのため売春宿を引退した遊女や遣手婆を採用することが多く、いっそうイメージを悪くしていた。だから話を聞いた時、和も最初は腰が引けていたのだが……。
「職業に貴賎はないのです。つまらないプライドにこだわり、何もせずに虚しく時間を費やすよりも、人の助けとなる仕事をするべきではないでしょうか」
と植村から言われ、それが殺し文句になる。通訳の仕事に就くのは難しく、他の仕事を探そうかと思案していた頃だけに、この言葉が心に響いたようだ。
生涯の盟友・鈴木雅との出会い
明治19年(1885)11月、和は桜井女学校附属看護婦養成所に第一期生として入学した。この女学校はアメリカ長老教会が経営するミッション系で、皇城(皇居)西方の麹町区中六番町(現在の千代田区四番町付近)。この界隈もかつての武家地だった。将軍を直接警護する旗本の「大番組」が住み、江戸時代は「番町」と呼ばれた。維新後は旗本屋敷の広い敷地を利用して各種の学校が設置され、学生街へと変貌している。
また、界隈には日露戦争で活躍した連合艦隊司令長官・東郷平八郎の屋敷もある。屋敷の跡地がある細長い坂道は「東郷坂」と呼ばれるようになるが、この頃の東郷はまだ将官にもなっていない無名の存在。当然、東郷坂などと呼ぶ者はおらず、名もなき坂道だった。
その名もなき坂道の途中に桜井女学校の校舎と寄宿舎が立っている。しゃれた感じの洋館がならぶこの敷地内に、和が学ぶことになった看護婦養成所もあった。
女学校敷地の隅っこにある2階建ての洋館が看護婦養成所の校舎だ。普通の民家とさほど変わらぬ小さな建物だが、一期生はわずか8人だからこれで十分。養成所は2年制で、前期の1年間はこの教室で基礎医学や看護学などの講義を受け、後期の1年は病院での実地訓練が予定されている。
当時の和は28歳で子持ちバツイチ。20歳前後の未婚の娘たちに混じってやっていけるか不安があった。それだけに、同期生の中に1歳年上の鈴木雅(まさ)がいたことで救われた気分になったという。
雅もまた2人の子持ち、離婚と死別の違いこそあれ同じバツイチだった。それでお互い親近感が湧いたようである。彼女は旧幕臣の軍人と結婚したが、夫は赴任先の仙台で病死した。雅は自分の看護が不十分だったせいで夫を死なせたと思うようになり、深く後悔した。それが看護婦を志す動機になったという。
和たちに看護学を教える講師は、ベテラン看護婦のアグネス・ヴェッチという人物。ナイチンゲールがクリミア戦争などの体験を生かして確立させた「ナイチンゲール方式」と呼ばれる看護婦養成の手法は、各国の看護婦学校や養成所も導入されて世界標準になっている。アグネスはナイチンゲール看護学校の第一期生なだけに、それに精通していた。
桜井女学校看護婦養成所もナイチンゲール方式に則り、生徒たちはまず、前期1年間の基礎医学や看護学の講義を受けることになる。アグネスが早口でしゃべる言葉には難しい専門用語も多かった。が、横浜のフェリス・セミナリー(現在のフェリス女学院大学)で英語を学んだ雅が、それを澱みなく日本語に訳して他の生徒たちに説明し、授業は進んでゆく。
帝国大学附属病院の看病婦取締役に就任
明治20年(1887)10月、1年間にわたりアグネスから看護学を学んだ和たちは、帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)附属第一病院が主催する看護実習に参加した。帝国医科大学でも近代的な看護法の導入するために、1年の期間で「看護法・看病術実地訓練」をおこなうことになり、講師をアグネスに依頼してきたのだが……。その縁で、桜井女学校看護婦養成所の生徒も委託生として訓練への参加が認められたのだった。
約8万8000坪の加賀藩上屋敷跡地を中心に広がる広大な帝国大学キャンパスの中に、看護の実習をおこなう附属第一病院も立っている。病院の南側には緑樹に囲まれて三四郎池があり、大名屋敷の頃の雰囲気が最もよく残る場所だった。
3棟の長大な建造物によって構成される附属第一病院は、隣接する医科大学よりも大きく存在感がある。当時の日本では最大級の医療施設で、最先端の医療機器を取り揃えていた。が、そこで働く医師たちの思考回路は最先端とはいえない。教授や学生たちも“序列”を強く意識する。古臭い権威主義の窮屈で息苦しい雰囲気が蔓延していた。また、看病婦も吉原の遊郭を引退した遣手婆を集めて頭数を確保している状態。技量や知識、モラルには問題多々ありだった。病院の実態を知った和は唖然となってしまう。
看護の仕事を理解できない医師や看病婦たちの言動に悩まされながらも、和や雅は医療の現場で奮闘してスキルを身に付けていった。和は頭の回転が速く適切な判断ができるうえ、武家の娘なだけに肝が据わっている。不測の事態が起きても、テキパキと動いてくれるから頼りになる。院内の評価はしだいに高まってゆく。また、この病院は華族や高級官僚などの上流階級の患者が多い。上流階級の人々は看護婦にもそれなりの家柄の者を求める傾向があり、家老の娘という出自を持つ看護婦がいればそんな時にも何かと助かる。外科のトップにある佐藤三吉教授などは、「大関は僕の友人である」と公言して、医師と同格に扱うようになった。
1年に及ぶ看護法・看病術実地訓練を終えて、明治21年(1888)10月に和は桜井女学校看護婦養成所を卒業した。彼女と雅は引き続き医科大学附属第一病院外科で働くことになる。しかも、和は外科看病婦取締という役職を与えられる高待遇。順風満帆といった感じで、看護婦としてのキャリアをスタートさせるのだが……。
取材・文・撮影=青山誠






