ベトナム社会主義共和国
インドシナ半島の成長国。日本には技能実習生や特定技能など労働者を中心に68万1100人が暮らし、社会に欠かせない存在になっている。足立区では4503人が暮らすが、この数字は江戸川区に次いで23区で2位。足立区内では留学生、会社員とその家族が多い。
訪れた人が「懐かしい」と思えるような店
「その頃からずっと綾瀬に住んでいるんです。子供の保育園も学校も、みんなここ」
いまやすっかり足立区民なわけだが、当時は綾瀬をはじめ近隣にベトナム人は少なかったという。
「10年くらい前からかな。亀有とか、近くに日本語学校や専門学校ができて、ベトナム人の留学生も綾瀬に増えてきたんです」
そんな時期だった2017年に夫は独立し、地元・綾瀬に自分たちの店を開く。その名も「昔のベトナム」。
「来てくれたお客さんが、懐かしいと思えるようなお店にしたくて」
そう話すチャンさん夫妻がつくりだす家庭的で和やかな空気に惹かれて、店はいつしかベトナム人の若い留学生たちの憩いの場になっていった。いまでは家族連れのベトナム人も多い。
「日本人のお客さんは平日によく来てくれますね。ベトナム人は学校や仕事が休みの週末」
とりわけテト(ベトナムの旧正月)のときは、ベトナム人でにぎわうそうだ。
本場の味が、なんと500円から食べられる
メニューにはフォーや生春巻き、バインミーなどポピュラーな料理がひと通り揃っているが、まずはバインセオから。日本では「ベトナム風お好み焼き」なんて表現されることもある粉もの料理だ。具材はたっぷりのもやしと豚肉とエビで、これをココナッツミルクをベースにターメリックを加えた生地で包み込んでいる。
そのまま食べてもおいしいのだが、僕は知人のベトナム人から「こうするともっといけるぞ」という方法を教わっていた。生春巻きなどベトナム料理によく使うライスペーパーで巻くのだ。まずは手のひらの上に別途注文したライスペーパーを広げ、つけあわせのレタスやパクチーをのっけて、そこに切り分けたバインセオも重ね、まとめて巻いていく。これをヌクチャムという、魚醤(ヌクマム)や酢、唐辛子、ライムなどを合わせたタレにつけて頬張るのだ。ぜひ試してほしい。なお、バインセオの写真(上)は「バエるように」と実際のメニューより少し大きめにつくっていただいたのでご承知おきいただきたい。
ブン・ボー・フエも人気があるそうだ。メニューの日本語には「ピリ辛い牛肉ビーフン」と表現されている。フォーと同じ米麺料理のひとつだ。平たい麺のフォーに対して、ブンは丸く太めな米麺を使う。「ボー」とはベトナム語で牛肉のこと。僕はつい「スペシャル」を頼んでしまったので、加えてデカい豚足と鶏ハムまでのっている。
「このハムがフエ産なんですよ」
ブン・ボー・フエはベトナム中部、かつての王都フエの名物料理でもある。そしてスープはピリ辛だ。レモングラスと唐辛子を合わせたサテという調味料がほどよく深みのあるスパイシーさを生み出している。
バインセオもブン・ボー・フエも、日本人にもそこそこ知られるようになってきたが、ベトナム料理の世界は深く広い。もうちょっと食べたことのないものを……とオーダーしてみたのが、まずはハチノスとパイナップルの炒めもの。日本人には考えつかない組み合わせだが、ハチノスの歯ごたえとパイナップルの甘みが意外によく合う。もうひとつ、うずらの卵が入った野菜炒めも日本人には食べやすい味だ。
ほかにもさまざまなメニューがあるのだが、どれもこれも安い。500円の品がやたらに多いのだ。食材費高騰の折、お店の売り上げが心配になってしまうが、チャンさんは言う。
「お客さんもたいへんかなと思って」
やってくるのは留学生が多いのだ。アルバイトでどうにかやりくりしている人もたくさんいる。そんな若者たちが気軽に来られるよう、高くなった食材で自炊するよりも安く食べられるよう、値上げせずにがんばっている。
綾瀬には新しくベトナムの寺院も開山
チャンさんたち夫妻は同胞の留学生を支援するだけでなく、長年暮らしてきたこの国に対しても社会貢献をしている。日本のお寺と在日ベトナム人の有志で協力して、浅草でホームレスにお弁当を配っているそうだ。月に2度、100~200食を用意する。
さらに子ども食堂も始めるのだとか。日本人の子供もベトナム人の子供も、お店が居場所になればと話す。
「ボランティア、好きだからね」
加えて夫妻が敬虔な仏教徒であることも影響しているだろう。困っている人を助けたり、寄付をすることは、仏教では徳を積む行為でもある。そんなベトナム仏教の寺院が、新しく綾瀬に完成した。5月31日、お店から北にある東綾瀬公園の目の前に「東京大恩寺」が開山したのだ。ベトナム人尼僧のティック・タム・チーさんが住持する。彼女はコロナ禍のときに世界的な国境封鎖で帰国できなくなったり、過酷な職場から逃げ出した技能実習生たちを受け入れる「駆け込み寺」を埼玉県で護持してきたことで名高い。今度は東京の、それもベトナム人が多い足立区にお寺を開き、「ベトナム人だけでなく日本人との交流の場にもしたい」と話す。
近所の日本人や区役所、地元の警察や議員も招いた内覧会では、夫妻が用意した料理が振る舞われた。誰でも歓迎なので、『昔のベトナム』と併せて訪れてみてほしい。
取材・文=室橋裕和 撮影=泉田真人
『散歩の達人』2026年7月号より








