慶應3年(1868)12月に黒羽藩主・大関増裕が猟銃の暴発事故で急死し、和の父・団右衛門もこの時に家老を辞職した。当初は家禄や屋敷も返上して黒羽を去る覚悟を決めて、主君の未亡人に家禄返上の許しを得るために江戸屋敷に赴いたのだが。未亡人に慰留されて藩に残ることになった。
どうやら、弾右衛門が家老辞職後すぐに江戸に向かったことが「家老を辞した後に、黒羽を去り江戸に住んだ」と誤解されて伝わったようだ。そのため、和が出産のために里帰りした“実家”も江戸にあったとする話が書籍やネットサイトでよく見かけられる。
和が結婚して弾右衛門はすぐ亡くなるのだが、家督は和の弟である長男・大関復彦が相続した。城下図などにも、明治時代中期まで「大関復彦」の名が記された屋敷が黒羽城下の大手筋に近い場所にあることが確認できる。実母の哲(てつ)もここに住んでいたはず。“実家”は黒羽にあったと考えて間違いないだろう。
明治13年(1880)に長女・心が産まれるとすぐ、和は福之進に離婚を申し入れた。夫は離婚を了承するが、長男・六助を奪おうと画策してくる。それを避けるために黒羽を離れて上京することにした。
明治14年(1881)の春頃、和は子供たちと母や妹とともに東京へ向かう。黒羽から東京は約175km、普通の旅人なら奥州街道を歩いて3日ほど。だが、幼い子連れだと難儀する。おそらく、徒歩旅行を避けて水上交通を使ったと思われる。
黒羽城下と街道の宿場町の間を流れる那珂川は、当時、北関東の物流拠点として機能していた。街道筋から荷駄に運ばれてやってきた荷は、ここの河岸で帆掛船に積み替えられる。船には旅客も多く乗っていた。黒羽の河岸から那珂湊まで下り、さらに、霞ヶ浦方面に出て利根川水系の船に乗り換えれば、歩くよりも早く東京(江戸)に着く。
この1年前にはこの河川交通のルートを伝ってコレラが栃木県内に流入した。東京から荷物を運んできた川船の船頭や旅客がコレラに感染し、川の流れに沿って県内各地に感染が拡大。当時は致死率60〜70%にもなる死の病なだけに、人々をパニックに陥れた。出産を控えた和も感染の恐怖に怯えたことだろう。自分がこの恐怖の病と戦う仕事に就くことになろうとは……この時の彼女は、思いもしていなかっただろう。
明治時代前半の頃、東京は“農村”だった!?
上京してきた和が最初に住んだ神田五軒町(現在の千代田区外神田)は、江戸時代に5つの大名屋敷が立っていた武家地。それが町名の由来にもなっている。その北西の一角に黒羽藩大関家上屋敷もあったのだが、維新後は建物を取り壊して桑畑や茶畑に転用された。明治2年(1869)に布告された「桑茶令」で、桑茶畑の開墾をおこなう事業者に接収した大名屋敷や旗本屋敷が払い下げられることになり、約102万坪の武家地が農地に転用されたのだった。
しかし、大名屋敷敷地の一部は、旧大名家が引きつづき私有地として保有している。そこに旧藩士や藩にゆかりの者たちが集まり、家を建て暮らすようになっていた。黒羽藩邸跡地も同様で、旧藩邸の古ぼけた長屋門を潜り抜けると、桑畑の囲まれた一角に数軒の家々が立ちならんでいる。住人は知った顔ばかり。ここでは早口の江戸言葉は聞かれない。みんな平坦なアクセントと濁音の多い北関東特有の訛りのある言葉を話していた。
まるで黒羽にいるような感じで、ここなら上京してきたばかりの田舎者も安心。先住者は新参者に、東京での暮らし方をあれこれレクチャーしてくれる。和も同郷者たちに助けられて、東京暮らしになじんでゆく。
明治の日本で最強の武器になる仕事スキルは?
上京してからの和は、積極的に動きまわって交流を広げた。もともとが物怖じしない社交的な性格だが、この頃はなにか必死な雰囲気を漂わせている。上京の目的は自活の道を得ることだった。黒羽のような田舎町で女が職を得て家族を養うことは不可能だが、文明開花の東京なら……近代化の波が押し寄せ、社会制度や生活様式が激変しているこの街なら、女にも道が開けるかもしれない、と。
そのために、できるだけ多くの人に会い、人脈を形成して情報を集めようとする。文明開花の世で求められるスキル、女が自活するために役立つ武器は何かを知るために。
明治17年(1884)6月12日、鹿鳴館で華族の夫人たちが主催する慈善バザーが催され、和がそこに参加していたという記録が残っている。旧薩摩藩中屋敷跡地に建設された鹿鳴館は、夜な夜な政府高官や外国要人が集い贅を尽くした宴が催される。当時の社交界の中心的存在。和がバザーに参加できたのは鄭永慶(ていえいけい)の手引きだったという。
鄭は近松門左衛門の『国姓爺合戦』のモデルとなった鄭成功の末裔。江戸時代から代々が長崎奉行所で通訳を勤めてきた家柄で、本人も大蔵省官僚というエリートなのだが。この後、官僚を辞して上野で日本初の喫茶店「可否茶館」を経営するようになる。風変わりの人物だけど、中国語やフランス語、英語などの複数の外国語を使いこなすマルチリンガルの秀才だった。
その鄭の影響だろうか、和も英語を学ぶようになる。当時、政府や企業では外国人を大量に雇用し、また、仕事や観光などで来日する外国人も増えていた。通訳の数が足りず極端な売り手市場、女でも英語スキルを身につければ仕事はすぐ見つかりそう。と、考えて英語学校で本格的に学ぶことにした。
この頃の東京にはキリスト教会が主催する英語学校が多くあった。明治6年(1873)にキリスト教の禁教は解かれたが、人々には邪教のイメージがまだ根強く残っている。普通に布教活動をしたのでは警戒される。そこで英語学校や英語塾を各地に設立し、英語の授業を通じてキリスト教の教えを日本人に伝えようとした。
和が学んだ「正美英語塾」も、主催者の植村正度は「日本プロテスタントの父」と呼ばれた植村正久牧師の実弟。当然、教会との関係は深い。キリスト教会系の英語塾は聖書を教材に使うことが多く、和もここで英語学習を通じて聖書を知る。やがてキリスト教に関心を抱くようになる。夫に妾がいることが許せず離婚した彼女にとって、一夫一婦制を説く教えはツボだったようだった。
塾で学ぶうちに、植村正久牧師とも親しくなってゆく。そして、この出会いが彼女の人生の大きな転機となる。
取材・文・撮影=青山誠






