歴史ある建物が、当たり前の景色の中に
「歩いてこそ魅力がわかる」「風光明媚なフツーの町」。約30年前の『散歩の達人』では、この街をそう銘打った。街の人々の記憶を紡ぐ地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の創刊から13年が経った、1997年9月号のことだ。いつしか「谷根千」という呼び名も生まれ、散歩が楽しいエリアとして広く知られるようになった頃だろう。とはいえ、誰もが知る観光地になるのはもう少しあとのこと。
「僕が住み始めた頃はまだまだ素朴で、訪れる人も一部の鼻が利く人という印象でした」と話すのは、2000年代半ばから谷中住まいの『HAGISO』代表・宮崎晃吉さん。井戸端会議が繰り広げられる、下町というより田舎みたいな日常。そのなかに文化財レベルの建物がゴロゴロ! 知的好奇心をくすぐる穴場の街としては十分すぎるポテンシャルだ。
現在は国の登録有形文化財である『はん亭』の建物も開業前はあまり顧みられていなかったというから、それほど歴史ある建物が当たり前の景色だったのだろう。店長の野沢高行さんは「当時、本当にこの建物が店になるの?と思った」と笑う。
「築100年を超える建物ですから、商売だけを考えていては保てません。でも、残していくことを第一に考えていきたいです」
とはいえ、東京の方々で広がっていた再開発の波は谷根千にもやってくる。野沢さんいわく「90年代までは『はん亭』の向かいも同じくらい古い木造の建物でした。お隣には駄菓子屋さんもあったんですよ」。不忍通り沿いにビルが目立つようになり、富士見坂から見えた富士山は消え、商店街も個人商店の姿はまばらになった。それでも、この街のすごいところは、「守る」ために辛抱強く働きかけ「残す」選択をした人々が早くからいたことだ。
大きく変わった部分とだからこそ変わらないこと
大正初期竣工の町屋建築で営む『カヤバ珈琲』は、店主が亡くなって閉店した後、まちづくり活動を続けていたNPO法人・たいとう歴史都市研究会が街の憩いの場を受け継ぐべく建物を借り受けた。リノベーションという言葉がまだそれほど浸透していない時期に、保存と再生へ導いた例だ。
もとは木造アパートの『HAGISO』もまた、取り壊しの運命を覆して生まれ変わった場所の一つ。「当時、こういう昭和のアパートは一級品の建築と違って価値を見出されていなかったけど、だいぶ見方が変わってきたのでは」と宮崎さん。
2010年以降は海外からの旅行者が一気に増え、特に欧州から来た人が目をキラキラさせてひなびた家屋を眺める姿も珍しくない。彼らの視点が、身近にあった魅力を再発見する手助けになった側面もあるのかもしれない。
来たる2026年3月28日には、日暮里駅から谷中ぎんざへと向かう道すがらに『スターバックス カフェ&アートギャラリー 谷中御殿坂』がオープンする。その設計を手掛けるのは『HAGISO』だ。
「すごく迷いましたが、この街にリスペクトを持った開発の事例になればと引き受けました。賛否両論あると思いますが、長い目で見ればそれも街の歴史の一時代になるかもしれない。それなら、記憶に残るような建築にしたい」
30年で惜しくも失われた景色は数知れず。でも、だからこそ、街への愛は変わらずみなぎっているように感じる。変化に対して真剣に是非を考え、議論を交わす人たちがいる。地元民のみならず、ほれ込んで住み着いた人も、谷根千を自分の故郷のように思って行動しているのが心強い。
きっと、この街の根幹は「風光明媚(めいび)なフツーの町」からちっとも変わっていない。そしてその魅力は、つぶさに歩いてみなくちゃ分からないのだ。
半世紀近く街を見守る串揚げ処『はん亭』
大正6年(1917)築とされる木造3階建ては根津のシンボルの一つ。上野で串揚げ店を営んでいた初代・高須治雄さんがそのたたずまいに見とれて買い取り、1978年に開業した。ハレの日を彩る串揚げは、旬の食材を生かした独創性のあるメニューに定評がある。
『はん亭』店舗詳細
歴史と思いを引き継いで再生『カヤバ珈琲』
2006年に一度歴史に幕を下ろした、昭和初期創業の老舗喫茶。閉店を惜しむ人々の思いが実り、一部をリノベし新たな事業者を迎えて再スタートを切った。昨年には往時の味を復刻したたまごサンドも登場、数量限定で朝のうちに売り切れてしまうほど人気だ。
『カヤバ珈琲』店舗詳細
日常に価値を見出して生かす拠点『HAGISO』
もとは芸大生たちのアパート兼アトリエだった。解体前に元住民たちが開催したイベントを機に改修・再生が決まり、2013年に「最小文化複合施設」としてオープン。街をホテルに見立てた『hanare』をはじめ多数の店舗やプロジェクトを展開している。
『HAGISO』店舗詳細
谷根千のこれまで
1938年
『カヤバ珈琲』 オープン
1978年9月
『はん亭』 オープン
1984年10月
地域雑誌「谷中・根津・千駄木」 創刊
1996年4月
谷中を舞台にしたNHK朝の連続テレビ小説 『ひまわり』 放送開始
2001年7月
「たいとう歴史都市研究会」 設立、2年後にNPO 法人化
2006年
『カヤバ珈琲』 閉店
2009年8月
地域雑誌「谷中・根津・千駄木」刊行終了
2009年9月
『カヤバ珈琲』 再オープン
2013年3月
『HAGISO』 オープン
取材・文=中村こより 撮影=オカダタカオ
『散歩の達人』2026年4月号より







