数年前に帰省した際、靴流通センターだった建物がボルダリングジムに改装されていることに気づいた。その頃私は体を鍛えるため実家に帰るたびに公共トレーニングジムに通っていた。だが単純な筋トレは苦しく続かない。スポーツ感覚で楽しみながらいつのまにか体が鍛えられる、そういうものはないのか。気になっていたのが人気拡大中のボルダリングだった。これがすでに入ってきているとは香川も捨てたものではない。一緒に筋トレに通っていた幼馴染みを誘い行ってみることにした。

談笑する活発な若者たち

夜8時、友達の運転でジムに到着したのはいいものの、ガラス戸から店内の様子を見て入るのをためらった。常連と思われる7、8人の活発そうな若者が楽しそうに談笑し、ボルダリングを楽しんでいる。常連間の繋がりが強そうだ。私たちが入った途端に場が静かになったらどうしよう。私と似たメンタリティの友達も、車のスピードを落とし、中をうかがいながらジムの前を何往復もしていた。しかしわざわざ30分かけてやって来たのだ。お互いを励まし合い、意を決して店の扉を開いた。若者たちは私たちを気にする様子もなく、そのまま談笑を続けていた。

私も友達もボルダリングは初めてだ。できるだけ若者の集団から離れ、適当に初心者用っぽい壁を登っていくことにした。すると若者たちの1人がこちらに近寄ってきた。何か文句を言われるのではないか。身構えたが、彼は「ボルダリング初めて?」と気さくに言った。「初心者で何もわからないんですよね~」ヘラヘラ答えると、同じ色の岩を小さく書いてある番号の順番で登るんだよと教えてくれた。なるほど。言われた通りに登っている時も、「もうちょい右手伸ばせば摑めるよ」「そこは片手で持たなきゃいけないけど頑張って!」とアドバイスをくれた。若者は単にいいやつだった。変に構えていた自分が恥ずかしい。

彼はその後も、店員のように私たちに付き添ってくれた。おかげで基本的な知識が身につき、だんだん楽しくなってきた。ありがたい。ただ、一つ気になることがあった。敬語で話す私たちに、彼が終始タメ口をきいている点だ。

私の見たところ、彼はおそらく我々より3つか4つ年下だった。私たちも礼儀に細かい方ではないし、若者が我々をバカにしているわけではないとわかっていたので嫌な気はしなかった。ただ、彼は我々を年下だと思って話している気がする。私の不安は、実は我々の方が年上だったと途中で気づかれたら気まずいな、ということだ。

1時間以上いろいろなコースにチャレンジし、手が疲れて登れなくなってきたあたりで私と友達はベンチに座り休憩をとった。初めてにしてはけっこう楽しんだ気がする。もうちょっと登ったら帰るか、と話していたところに先ほどの彼がやってきた。

ていうか、いくつなの?

「初めてだからけっこう疲れたでしょ!」「そうですね~もう手に力入んないっす」笑っていると「ていうか、今日はどこから来たの?」「なんの仕事してるの?」と世間話を振ってきた。まずい流れだ。適当に受け答えしているうちに恐れていた質問が彼の口から出た。「ていうか2人はいくつなの?」

サバを読むべきか一瞬迷ったが、結局は正直に「俺らは28歳です」と答えた。流れ上、聞き返さないと不自然なので「お兄さんはおいくつですか?」一瞬の空白の後、若者は「俺は24歳」と答えた。完全に予想通りの年齢だった。なんであんな自信満々に年上の感じでこれたん!? でももしかしたらこの人は、年齢に関係なくタメ口を使うフランクなタイプかもしれない。いや、そうであってほしい。

あともうちょいだけやって帰りますと言って壁に登っていると、相変わらずアドバイスを送ってくれた。「先に右の石握ったほうがいい…」よかった。一瞬変な雰囲気はあったが、今まで通りタメ口で行くことになったみたいだ。「そのコースは上級者でも難しい……」少し違和感があった。「足つっぱらないと届かない…………」だんだん語尾が弱くなっている気がする。壁を上まで登り、下りて若者に近づいた時。気づいてしまった。

「今のかなりいい感じだった…………ッス…」

間違いない。聞こえるか聞こえないかくらいの空気のかすれ音。だが確実に意図を持った形で、語尾に「…ッス…」が加えられていた。敬語だ。彼は今、タメ口から敬語に移行しようとしている。そんなグラデーション的に敬語に切り替えるのは無理があるだろう。

「最初に比べたらかなり上手くなった………ッス…」やめてくれ。タメ口と敬語の狭間の懊悩が伝わってくる。こうなるのが嫌だった。若者の言葉が完全な敬語になってしまう前にと、私たちは早々にジムを去ることにした。

車に乗り込んだとたん「聞こえた?」「聞こえたよな⁉」と「…ッス…」の存在を確認しあったあと、ボルダリングも楽しかったし若者もいいやつだったけどもう顔を合わせられないなあと少し寂しい気持ちを抱えて夜の道を走った。

文=吉田靖直(トリプルファイヤー) 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2020年3月号より

中野には学生時代からよく行っていた。家から近くて中古CD屋や本屋が多かったから買い物しに行っていたのだが、中野という街自体も好きだった。
地元から上京して半年間、大学に近い高田馬場に住んでいた。高田馬場とはいえ駅から徒歩25分の場所なので周りには住宅しかない。場所もあまり好きになれなかったし、半年住んだ頃からネズミが大量に発生、糞尿被害に耐えられなくなったので引っ越すことにした。今度はもう少し駅から近い、楽しい街に住もうと思った。