今回の“会いに行きたい!”

城崎温泉『富士見屋』主人の松本淳志さん 、女将の松本美子(よしこ)さん

飲み友だちから女将へ転身。宿が人生の集大成の場に

「まさか自分が宿の女将になるなんて。いまでもどこか、不思議な気がしているんです」

播州(ばんしゅう)織のワンピースの裾を揺らし、『富士見屋』の女将・松本美子さんは食堂を軽快に行き来する。3代目主人の淳志さんが厨房で腕を振るい、美子さんは接客を担当している。

『富士見屋』は、淳志さんの祖母が昭和37年(1962)に創業。「ふじの家」「冨士ホテル」「リゾート観光ホテル冨士見屋」「富士見屋」と名称を変え、改装して3年目を迎えた。

その日手に入った地元産食材で夕食のメニューを決める。
その日手に入った地元産食材で夕食のメニューを決める。

美子さんが城崎温泉にやってきたのはいまから10年前、37歳の時だった。編集・ライターのスキルを見込まれ、知り合いから「あなたにぴったりの仕事がある」と声をかけられ、豊岡市の地域おこし協力隊として「城崎文芸館」のリニューアルに携わった。

プロデューサーはブックディレクターの幅允孝(はばよしたか)さん。「幅さんと仕事ができるのはまたとない機会かも」と、城崎行きを決めた。

一生独身だと思っていたから、「仲居ができれば一生食べていけるかも」と、文芸館の仕事のあとに『富士見屋』とは別の宿でアルバイトを始めた。勤務は17時30分から22時まで。宿の社長と、のちに夫となる淳志さんが和太鼓チームの仲間だった縁で、美子さんも飲み友だちになる。

「温泉街の人たちは『酒グセの悪い二人が飲み歩いている』くらいにしか思っていなかったんですけれど……」。2019年、二人は晴れてゴールイン。

旅行情報誌の編集、フリーライターを経て、ホテルのプランナーなどを経験してきた美子さんは当時40歳。淳志さんは43歳のバツイチ。人生経験を積んだ二人のオトナ婚だった。

本館の客室はモダンな雰囲気で、低反発と高反発素材の長所を融合したベッドマットレスを採用。「桔梗(ききょう)」はダブルベッドの客室。
本館の客室はモダンな雰囲気で、低反発と高反発素材の長所を融合したベッドマットレスを採用。「桔梗(ききょう)」はダブルベッドの客室。

問題を一つずつ改善し、低評価からの脱却を果たす

宿が立つ喜多町地区は、かつての歓楽街の名残があるエリア。置屋の女将だった淳志さんの祖母は、山付きの土地を買って旅館を造り、母の代には山の上にも客室棟を建てた。

山荘や風呂は高台にあって眺めは抜群だが、80段を超える階段があるのが難点だ。そのため、口コミに「石段がきつかった」と書かれることが悩みだった。さらに、美子さんが嫁いできた当時の接客はのんびりしすぎで、「チェックインのときにフロントに人がいなかった」「こんな態度で本当にお客さんを迎える気があるのか」と散々な書かれよう。

当時のじゃらんや楽天トラベルなどの口コミは「2.4」という驚きの点数。しかも素泊まり5000円、1泊2食8000円という低価格で効率も悪かった。美子さんはこれまで見たことのない低評価に面食らいつつも、口コミにあるマイナス要素を一つずつ潰していくことから始めた。

太い梁が趣ある、ぜいたくな造りの山荘「風」。
太い梁が趣ある、ぜいたくな造りの山荘「風」。

大学生の頃は、京都市内で最も忙しいといわれた金閣寺の近くのマクドナルドでアルバイトし、新卒では起業家予備軍がゴロゴロいるリクルート社で働いていた美子さん。

そのモーレツぶりに家族や古参の従業員との摩擦も生じたが、淳志さんだけは「このままでは宿は続かない。美子さんの言うとおりやってみよう」と同調してくれた。

こうして夫婦が歩調を合わせて2023年、宿をリニューアルする。

「お客さんが心地よいと感じ、なおかつ自分たちも動きやすい宿にしたい」と考え、コロナ禍でお客さんがいない時期には「本当にこのサービスは必要か?」と一つ一つを精査した。

「初めて泊まる場所はとまどいが多い。読めばわかるよう、説明書きを充実させました」

建具を使った独創的な収納棚。
建具を使った独創的な収納棚。

リニューアルにあたり、ピカピカの改装はしたくなかったため、「いまあるものを使おう」と古材を再利用。Illustrator(イラストレーター)でラフを作ってイメージを伝え、建築士に図面を依頼。食事処の壁面に備えつけた棚の扉には、築60年の本館で使っていた欄間や障子などの建具をはめ込んだ。

90㎝角の障子にアイアンの脚をつけ、テーブルも特注する凝りよう。「住宅情報誌に携わった頃にはたくさんモデルルームに行きましたし、旅行情報誌ではおしゃれなカフェや宿を訪問。これまでのすべての経験が生きています」と美子さんは言う。

棚に飾られた器は、独身時代に買い集めた、島根県石見(いわみ)焼の石州(せきしゅう)嶋田窯のもの。玄関の床やカウンターの壁面には、同じ窯の特注タイルが味わいを添えている。

「毎年開かれる『登り窯まつり』では、窯が開くのを一番前で見て、気に入ったお皿を買っていました。人生で重ねてきたことを、すべてこの宿に注ぎ込みました」とほほ笑む。

当たり前のことを当たり前にする。その地道な努力が実り、1年半で口コミは「4.5」まで回復した。

障子をアレンジしたオリジナルテーブルを配置した食事処。夕食も朝食もこちらでいただく。
障子をアレンジしたオリジナルテーブルを配置した食事処。夕食も朝食もこちらでいただく。
石州嶋田窯のタイルを張ったかわいらしい玄関。
石州嶋田窯のタイルを張ったかわいらしい玄関。

宿は誰かの思い出の場所。なくなってはいけない

木々に囲まれた露天風呂。
木々に囲まれた露天風呂。

『富士見屋』の露天風呂は、城崎随一の眺望を誇る。だが本館に泊まるお客さんは、そこへ向かうために石段を上らねばならない。

お客さんのなかには「きつい」と感じる方もいるため、ホームページには「足腰の弱い方、体力に自信のない方には向かない」と、マイナス要素もあえて書いている。

「わざわざ書く宿は珍しいかもしれません。でも、いらっしゃってから『こんなはずじゃなかった』というミスマッチを減らしたくて……」

美子さんは現在も編集やライターの仕事を続けているため、文章を書くことは苦にならない。ホームページには、お客さんを迎える思いを綴っている。また「13歳以上」「初めての場合は一組2名まで」「香水の使用禁止」といった宿泊条件も、誤解のないように明記している。

厨房で仕込みをする淳志さん。オープンキッチンだからお客さんとの距離が近い。
厨房で仕込みをする淳志さん。オープンキッチンだからお客さんとの距離が近い。

料理は淳志さんがメインを担当し、美子さんは前菜のおばんざい5種を作る。但馬鶏(たじまどり)のハムやキムチ、マヨネーズ、梅干し、漬物、果実酒などはすべて自家製だ。

徳島県の実家は神社で、母も手作りのものをたくさん作ってくれた。だから美子さんにとって、手仕事は生活の一部である。

「独身の頃からずっと、毎年100㎏ほどの梅仕事を母と手分けしてやっていました」

宿の裏に並ぶいくつもの甕(かめ)は、嫁入り道具として持参。豊岡市の名産「コウノトリ育むお米」も祖母から受け継いだ無水鍋で炊く。

「祖母や母が使っていたこの無水鍋は、いまはもう販売されていない大きさです。これで炊くと、つやつやのおいしいご飯ができるんですよ」

祖母から譲り受けた無水鍋を大事に使う。
祖母から譲り受けた無水鍋を大事に使う。

宿を守り、引き継いでいく理由について、美子さんはこう語る。「宿は誰かの思い出の場所なので、なくなってはいけない。ずっとあり続けることが大事だと思うんです」

リニューアルで客室数を13から8に減らし、「目の届く範囲で、手厚くもてなしたい」と、夫婦二人で接客できる規模に整えた。

現在の口コミ評価は「4.8」。数字が高ければいいというものではないが、リニューアル後にリピーターが増えているのは、二人の宿づくりに共感してくれるお客さんが増えた証しだ。

再び訪れるときは、“ただいま”と気軽に戻ってこられる——そんな、肩肘張らない親戚の家のような宿を目指している。

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おすすめ立ち寄りスポット

『城崎文芸館』小説家たちの素顔にふれる

美子さんがリニューアルに関わった施設。常設展は志賀直哉をはじめ、城崎ゆかりの白樺派の作家を紹介。現代の小説家や本づくりを取り上げる企画展も開催している。

『Cafe Rest BOY(カフェ レスト ボーイ)』スリランカ風カレーが絶品!

美子さんがヘトヘトになったときに、元気をチャージしに訪れる。数十種類のスパイスを配合したスリランカ風カレーと別注の味噌汁がお気に入り。宿から車7分。

住所:兵庫県豊岡市城崎町湯島730/アクセス:JR山陰本線城崎温泉駅から徒歩8分

取材・文・撮影=野添ちかこ
『旅の手帖』2026年6月号より