不動産屋に行ったところ、紹介してくれたのは中野と阿佐ケ谷の物件。2つの物件の家賃は同じだったが、立地、間取り、収納など、どこを取っても中野の物件の方が優れている。しかし私は思った。上京して間もなく中野や高円寺に住み始めるのは、典型的な田舎者の行動パターン過ぎていてダサいのではないか、と。不動産屋には言わなかったが、それだけの理由で阿佐ケ谷を選んだ。

しかし実際に自分の足で歩いてみると、阿佐ケ谷は思った以上に魅力的な街だった。駅を出てすぐのきれいなけやき並木。街を歩く人はどこか文化的な気がする。ごはん屋さんも充実している。中でも気に入ったのが、駅から家までの間にある「スターロード」である。カウンターしかないようなこぢんまりとした飲み屋が何十軒も並んでいる、昭和の薫りがする飲み屋街だ。せっかく帰り道に飲み屋街があるのだからどこか行きつけの店を作りたいと思ったが、どこも常連しかいなさそうな店でハードルが高かった。

しかしある日、飲み会の帰り、酒が入って少し気が大きくなっていた私は、その日なら一人で飲み屋に入っていける気がした。中でも、最初に入るならここだろうと、以前から目をつけていたお店があった。スターロードのはずれにある焼き鳥屋だ。焼き鳥屋と看板に書かれてはいるが、別の看板には「名物・ラーメン」と書かれていて、そのこだわりのなさ、B級感が初心者にとっては入りやすそうに見えた。

おす、これからよろしくな!

10人足らずでいっぱいになる狭い店内に先客はいなかった。とりあえずカウンターに座って、60代くらいの老店主に名物のラーメンとビールを注文する。出て来たラーメンを食べていると、店主がこちらを見ている気がした。「美味しいです」とか言った方が良いのか。思案していると、突然「お客さん、この店くるの初めてだよね?」と声をかけられた。緊張が表に出ないよう気をつけながら、初めて来た旨を話した。すると無表情だった店主の顔が少し綻び、「へえ、どの辺住んでるの」とまた質問してくれる。そこから2人でいろんな話をした。最近上京して、阿佐ケ谷に引っ越して来たこと。この飲み屋に入ってみたかったが入りづらく、勇気を出して入ったこと。大学でバンドを組んでギターを弾いていること。店主も、育った町の話や、自分の店を持つまでの思い出を語ってくれた。

3杯目のビールを頼んだ時、店主が私のぶんとは別の小さなグラスにもビールを注ぎ始めたので、サービスかと思って受け取ろうとすると笑われてしまった。「違うよ。これは俺のぶん」店主は小さなグラスをこちらに掲げながら言った。「おす、これからよろしくな」そういうことか。私は照れながらグラスを差し出し、杯を交わした。自分のことを、一人の話ができる人間として認めてくれた気がして嬉しかった。これから東京でいろんな悩みに直面した時、この店に来て店主と話をするのだろう。家に帰ってもしばらく、高揚感は残っていた。

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2、3日しか空けずにまたすぐ同じ店に行くと、「こいつグイグイ来るな」と思われる気がして恥ずかしかったので、10日ほど空けてから行くことにした。ちょうどその日はバンド練習の帰りでギターを持っていたため、そこを発端に音楽の話で盛り上がることもできるかもしれない。

扉のガラスから中を覗いてみると若い3人組の先客がいる。少し緊張したが、店主を通じて他のお客さんと仲良くなるのも一興だろう。店に入って、微笑みながら会釈をしたが、店主は笑っていなかった。とりあえず注文したビールを飲んでいる間も、私の方を見ず、先客の3人とばかり話している。少し寂しかったが、店主の気持ちもわかる。先に話していた彼らを放置して、私だけに集中するわけにもいかないだろう。

その後も話は盛り上がり続けていた。私は一人でビールばかり飲んでいたが、40分ほど経った頃だろうか、話が一段落して、しばらく店内が無言になったその時。店主が思い出したようにこちらに近づいて来て、ギターを指差しながら言った。「それ、お客さんの?」ついにターンが回って来た。笑顔で「そうなんですよ~」と答えながらバンドにまつわる面白い話を思い出そうとしていると、続けて店主が言った。「そこにギター置かれると通り道の邪魔だからあっち置いてくれるか」

店主の表情は、私のことを全く覚えていないように見えた。ギターを移動させてから席に戻ると、すでに店主は元の場所に戻っている。再び店内は盛り上がり始めた。バンドの話をしようとワクワクしていた自分が心底恥ずかしい。私は残りのビールを飲み干し、店を出た。

そのあと4年半阿佐ケ谷に住んだが、それ以降その店には行かなかったし、他に行きつけの店ができることもなかった。

 

文=吉田靖直 撮影=鈴木愛子
『散歩の達人』2018年7月号より