大人になり、地元を離れ、東京で念願のひとり暮らしをはじめてからは、子どもの頃に家出未満を繰り返していたことをしばらく忘れていた。家出をする必要も、もうない。だから二年半前の初夏に、スーツケースをずりずりと引きながら正真正銘の家出をしたときは、妙な高揚感に包まれていた。

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結婚して一年ほど過ぎたある日の夜中、夫ののぞむくんと大喧嘩をした。いても立ってもいられなくなったわたしは、小さなスーツケースに服やパソコンを詰め込んで、一時間ほど歩いて見知らぬ街のネットカフェで夜を明かした。

朝がきても、まだ頭に血が上っているような感覚があり、一度心をゆるめなければ、と朝から営業しているスーパー銭湯を探しはじめる。できるだけ、生活圏から離れた場所に行きたい。検索結果の一覧を眺めていると『両国湯屋江戸遊』を見つけた。両国なら、移動時間も含めて気分転換になりそうだ。

目的地に辿り着くと、営業がはじまったばかりなのに多くの人で賑わっていた。そういえば、GWの中日だったなと思い出す。お風呂や脱衣所が広くて綺麗なことにも驚いたが、くつろぐスペースやコワーキングスペースがやたらと広くて充実していることに仰天した。連休明けに『転職ばっかりうまくなる』(百万年書房)の二社目の原稿の締め切りが迫っていたため、お風呂から上がってしばらくくつろいだ後、フリーWi-Fiを借りて、書きかけの原稿を終わらせた。その後、館内でお昼ごはんを済ませ、時計を見るとまだお昼過ぎだった。せっかく両国に来たのだから、外に出て散歩をすることにした。

あてもなく歩いているうちに、このまま実家に帰ることを思いつく。茨城なので、二時間もあれば電車で帰れる。母の日が近いからお花を買って帰ろう、と近くのお店を探してみると、『華業 樹 Florist Tatsuki』を見つけた。店内に入ると、見たことのないふしぎなかたちをしたお花がいくつも並んでいる。お店の方に予算を伝えてブーケを作ってもらうことにした。花束を受け取り、めずらしいお花を母もおもしろがってくれそうだな、とすこしたのしい気持ちになる。

駅へと戻る道すがら、屋根付きのガレージに人が集まっている様子が見え、近くを通り過ぎると、家族が集まってマクドナルドを食べていた。その光景を見て、無性に「帰りたい」と思った。花束を大事に抱えながら、まっすぐ実家へと帰っていった。

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母は予想通り、ふしぎなかたちのお花を喜んでくれて、すぐに家にある花瓶に活けてくれた。夫婦喧嘩をして家を出てきたことを話しても、母はのぞむくんを責めるような言い方はせず、「今度は二人でまた帰っておいで」と言った。

わたしが子どもの頃に、母も家出をしたことがある。実家に帰った母は、誰にも味方になってもらえず、そのまま戻ってきたと話していた。電車で地元に向かいながら、あのとき家出した母もこんな気持ちだったんだろうか、と一瞬思ったけれど、実家に帰って母と話したら、全然違ったんだろう、と思い直した。「帰りたい」と思うときに、安心して帰れる場所がある。そのことを知っていたから、あの頃のわたしは何度もちいさな家出を繰り返していたのかもしれない。

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久しぶりに両国へ訪れると、『両国国技館』はスーツや袴を着た若者で溢れていた。まだ数回しか訪れたことがないけれど、両国はやっぱりどこか非日常感が漂っている街だなと思う。以前行ったあのお花屋さんにふたたび向かうと、前回と同じように、ほかでは見たことのないお花がいくつも並んでいた。そのなかで、くすんだピンクベージュのチューリップが目に止まった。「『ラ・ベルエポック』っていう品種です」とお店の方が教えてくれる。あまり流通していない品種らしい。

周辺を少しうろついた後、隅田川で小休憩をし、また駅のほうへと戻った。クラフト紙にくるまれたチューリップの花束をときどき覗きこみながら、ホームで電車がやってくるのを待つ。頬に当たる風はひんやりとしているけれど、十七時を過ぎてもまだ少し空はあかるい。

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文=ひらいめぐみ

茨城県出身。作家、ライター。主な著書に『転職ばっかりうまくなる』(百万年書房)、『おいしいが聞こえる』(ハルキ文庫)など。最新刊『世界味見本帖』(角川春樹事務所)が好評発売中。

まちまち通信

ひらいめぐみさん・中前結花さんが同じ街をテーマに、毎月交互につづっていくリレーエッセイ。

『散歩の達人』2026年5月号より