70年にわたるラドリオの歴史に思いをはせて
神保町を代表する書店『書泉グランデ』の裏に面する路地裏に足を踏み入れれば見える、『ラドリオ』と書かれた看板。両側の通りが現代的な街並みで彩られているのに対し、この通りだけ昭和で時が止まっているかのような空気が流れている。店の外には、年季を感じる木製の立てかけ看板と巨大なスプーンとフォークのオブジェ。スペイン語でレンガを意味する『ラドリオ』という店名にちなんだ、レンガ造りの外観が印象的だ。
店に入ると、カウンター越しに篠崎さんが迎えてくれた。約10年前からこの店で働く篠崎さんは、2019年に店長を任されるようになった。彼女自身もまだ生まれていない創業当時のことについて、何か知っていることはないか伺ってみると、この店に代々伝わる貴重なエピソードを教えてくれた。
まずは、『ラドリオ』誕生のきっかけから。創業者である島崎夫妻は、戦前から『島崎書店』という書店を経営しており、この店を訪れる客のためにつくったサロンが後に『ラドリオ』となった。文学者や芸術家たちの憩い・交流の場となったこの店には、彫刻家の本郷新氏や昆野恒氏なども足繁く通っていたようだ。『ラドリオ』のマークとして、コースターやマッチ箱などに描かれている牛のイラストは、本郷氏がデザインしたものなんだとか。店内には、当時この店で働いていた女性店員をモデルにしたという本郷氏作の頭像や、昆野氏の作品などが飾られている。また、推理小説家の逢坂剛氏は、この店で直木賞の発表を待ったという逸話も残る。
学生運動が活発だった頃には、その運動に参加する学生が議論の場として利用していた。『ラドリオ』を語るうえで避けて通れない“ウインナーコーヒー”にまつわるエピソードにも、この学生運動の話題が登場する。コーヒーの上に生クリームをのせた、ウインナーコーヒー発祥の店として知られる『ラドリオ』。運動家たちの長い議論の間、生クリームがフタ代わりとなり、コーヒーが冷めにくいという利点があったおかげで、よく飲まれていたという。
ウインナーコーヒー自体は創業まもない頃からのメニューで、当時の常連だった東大教授がウイーンを訪れた際に飲んだコーヒーの話がもととなっている。「その話を聞いた当時の店長が、ほかのお店にはないものを出したいと考え、戦後の生クリームがめずらしかった時代にケーキ屋さんで作り方を学び、提供をはじめたようです」。
また、レジェンド店長の存在も、古くからこの店を知っている人の間では有名だ。「愛子さん」と呼ばれるその人は、『ラドリオ』の店長を50年近く勤め上げた方。駆け出しの芸術家に、彼らの作品を代金代わりにしてコーヒーを提供するなど、仁徳にあふれた人だったようだ。“シャンソン喫茶”として名をはせていたのも、愛子さんが店長を務めていた時期が全盛で、店長が代替わりして以降はシャンソン以外の音楽も流れるようになっていった。
長い歴史に縛られないあり方
外観や内装は創業当時から大きく変わってはおらず、店内の梁や柱など随所に歴史を感じる様子がうかがえる。「それでも、創業当時とまったく同じとはいえないですね。今は開放していない客席エリアもありますし、傾いていた柱を直す改装も行っているので、すべてが当時の柱のままではないです」と、篠崎さんは話す。
メニューについても、創業当時から“一切変わっていないものはない”という。名物のウインナーコーヒーは生クリームのかたさが変わっており、ブレンドコーヒーも創業当時からずっと同じ豆を使用しているわけではない。もちろん客層も、時代が変われば変化する。古くからの常連さんもいるが、多くは近隣で働くビジネスパーソンや近隣の大学に通う学生たち。現在は新型コロナの影響で、そのビジネスパーソンの来店もご無沙汰になっているようだが、休日になればレトロ喫茶めぐりの若者で賑わいを見せる。
そんな話を伺って、70年変わらずに残し続けることの難しさを改めて感じるとともに、伝統に縛られず変化するこの店の懐の深さも感じるようだった。大河小説にもなりそうな長い歴史を歩み続ける『ラドリオ』。この先刻んでいく新たな歴史を、いち喫茶店好きとして今後も見守っていきたい。
『ラドリオ』店舗詳細
取材・文・撮影=柿崎真英