沖縄には終戦の年まで軽便規格の沖縄県営鉄道がありました。その痕跡はほとんど消えましたが、僅かな遺構が残されています。約20年ぶりに訪れた沖縄県営鉄道の廃線跡を巡ります。
沖縄県営鉄道「ケービン」は那覇駅前から東へと与那原線の線路が延びていました。道路脇に辛うじて残る遺構を確認しながら東へと進みます。

道路に転用された廃線跡の先に三角形の遺構がある

後編は糸満線の跡を巡ります。再び国場駅跡へ戻ってきました。20年前の記憶では糸満線の跡も道路ばかりで、糸満駅跡付近に遺構が残り、前編で触れた例のトイレがあったはずです。

地図を見ると、国道507号沿いの住宅地から緩やかに南へとカーブする生活道路が、国場川を渡って南下しています。その道が糸満線の跡となります。“跡”といっても道路で、やはり遺構は見当たりません。

国場駅から分岐する小道を進むと国場川を渡る。すっかりと道路橋の姿だが糸満線のルートにあたる。
国場駅から分岐する小道を進むと国場川を渡る。すっかりと道路橋の姿だが糸満線のルートにあたる。

糸満線は自動車道が近づくあたりで東へと進路を取り、ぐるっと大回りするようにΩ状の曲線を描いていました。線路の大回りは、勾配を緩やかにするための迂回というケースが多かったのですが、この一帯は山岳地帯でもなく緩やかな地形です。

大正時代、糸満線は真っ直ぐ南下する計画でしたが、玉城村出身で医師から県会議員となった大城幸之一が、自身の出身地域に鉄道を通すよう県へ強く申し入れ、結果として東側へ大回りする線形となりました。地元沿線では“幸之一カーブ”と呼んだそうです。幸之一カーブは81年も経過し、道路に転用されなかった跡が畑となるか、あるいは地面と同化して判別できませんでした。

糸満市消防本部と報徳川に挟まれた砂利道は糸満線の廃線跡だ。遺構は無いが緩やかなカーブを描いている。雑草が生い茂っているので、小型乗用車での通行は要注意。
糸満市消防本部と報徳川に挟まれた砂利道は糸満線の廃線跡だ。遺構は無いが緩やかなカーブを描いている。雑草が生い茂っているので、小型乗用車での通行は要注意。

旧糸満駅までの道のりは判別しにくいです。はっきりと遺構が現れたのは、糸満市内の糸満市消防本部と照屋交差点の間の畑でした。ポツンと三角形の形状をしたコンクリート遺構が残っています。これは糸満線最大の遺構で、畑を流れる用水路を渡るために設置されたものでした。

糸満市消防本部の向かいの畑にポツンと残されている遺構。小川を渡るので建設されたもので、一帯は窪地となっているため築堤が設けられていた。
糸満市消防本部の向かいの畑にポツンと残されている遺構。小川を渡るので建設されたもので、一帯は窪地となっているため築堤が設けられていた。

畑は一段窪んだ地形となっていて、糸満線は築堤を設けていたようです。遺構は畑に囲まれているため近づけないのですが、望遠レンズで覗いて見ると、風化は進んでいるものの崩落するほどではありません。遺構は三角形の擁壁が両サイド“互い違い”になっていて、築堤が無いために不思議な形状です。衛星地図を見ると廃線跡がうっすらと確認でき、用水路に対して斜めに横切っていたようです。

畑の外から望遠レンズで観察。三角形の擁壁が特徴的で、築堤の力が分散するように設計されていたという。築堤が無いいま、畑に突如として現れる謎のモニュメントである。
畑の外から望遠レンズで観察。三角形の擁壁が特徴的で、築堤の力が分散するように設計されていたという。築堤が無いいま、畑に突如として現れる謎のモニュメントである。

この謎は、旭橋の図書館で閲覧した『おきなわ軽便鉄道マップ(ボーダーインク刊2008年8月)』のコラムに詳しく記されていました。擁壁にかかる築堤の重さを分散させるため、四角い形状ではなく三角形とし、互い違いにすることで力を分散したのではとのことで、なるほど擁壁にかかる築堤の重さを分散させるためならば、このような不思議な形状でも納得できます。

糸満駅トイレと20年ぶりの再会になるのか

糸満線最後の地点、糸満駅跡へ到着しました。市立中学校の付近に駅があったようで、中心地からは若干離れた位置となります。鉄道建設時、すでに街並みが形成されていて立ち退き交渉が難しかったのか、何か利害関係があるなど大人の事情で町外れのほうに駅が設けられたのか、これは想像の域を脱しませんが、全国津々浦々の鉄道駅でよくあった事例と同じようなものかもしれません。

そして、ずっと気になっていた旧糸満駅のトイレを探します。記憶を思い出しながら、住宅地の小道を進むと、見覚えのある空間に出ました。この小道と空間は、かつて糸満駅の構内だったそうです。駅の跡は住宅地になっていました。

ショック……。炎天下のなか、首を垂れてがっかりした瞬間である。
ショック……。炎天下のなか、首を垂れてがっかりした瞬間である。

あ……何もない。そう、トイレは消えていたのです。調べればすぐ分かったことなのですが、何か認めたくないものがあって、現地を見るまでは下調べしないでおこうと決めていました。が、目の前の空間にはトイレのあった痕跡が塀に残っているだけで、何もありませんでした。

トイレはきれいさっぱり無くなっていた。壁面には僅かに痕跡が残っているが、トイレを知らないと何の跡か分からない。戦後残された遺構も老朽化という現実からは逃げられない。
トイレはきれいさっぱり無くなっていた。壁面には僅かに痕跡が残っているが、トイレを知らないと何の跡か分からない。戦後残された遺構も老朽化という現実からは逃げられない。

トイレは2011年頃に解体されたそうです。比較的最近まで残されていたのですね。来るのが遅すぎました。塀に残った僅かな痕跡を少し眺め、戦後81年、前回訪れてからも21年。長い月日で遺構が残されているだけでも奇跡なのだなぁと、しみじみ感じていました。

あらためて、トイレがあった2005年と現在の比較。
あらためて、トイレがあった2005年と現在の比較。

トイレ跡の近くに保存されている戦前製の電柱

最後に、ケービンとは直接関係ないものの、トイレ跡の近くに戦前製の電柱が残っているとのことで、『新川区(みーがーく)の電柱』との名称となった史跡へ向かいました。ミーガーとは共同井戸のことで、共同井戸を照らす電灯のために設置された電柱で、四角柱の細いコンクリート製です。

ミーガーと言われる共同井戸の近くに電柱がある。遠目からだと目立たない存在だ。
ミーガーと言われる共同井戸の近くに電柱がある。遠目からだと目立たない存在だ。

いつ頃に設置されたのかというと、電柱の裏側にはっきり『昭和十一年三月五日』と大きく彫られていました。沖縄戦の激しい砲撃にも耐え、補修されながら2008年まで現役でした。2000年代初めのころまで、電柱として活躍していたことに驚きます。

裏にはしっかりと建てられた時の年月が刻印されていた。
裏にはしっかりと建てられた時の年月が刻印されていた。

四角柱の電柱は細く、数カ所に出っ張りがあります。点検用の足掛けなのかもしれません。電柱は補修されて使用されたとはいえ、ところどころに砲撃の痕跡が見受けられました。戦前製の電柱は小さな遺構にすぎませんが、弾でえぐれた四角柱を眺めていると、沖縄戦の地上戦の激しさと無慈悲さがじわりとが伝わってきました。電柱はこれから将来も、平和の語り部としてミーガーに寄り添いながら立ち続けることと思います。

電柱には説明板が備わり、いわれなども知ることができる。
電柱には説明板が備わり、いわれなども知ることができる。
電柱に刻まれた歴史。弾痕と思しき柱の傷が生々しい。
電柱に刻まれた歴史。弾痕と思しき柱の傷が生々しい。

以上で、沖縄県営鉄道「ケービン」の足跡を駆け足で辿りました。もう少しじっくりと巡りたかったのですが、台北~那覇~羽田の経路途中で立ち寄ったため慌ただしく、真夏の太陽と旅疲れで参ったため、倒れない程度に足跡を巡ったのでした。短期間の訪問でしたが、遺構はじわじわと減っている気がします。ケービンの遺構は、沖縄の近現代の歴史を知るうえで重要な存在となります。旅程に無理なく訪れることをおすすめします。

取材・文・撮影=吉永陽一

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