文化的な香りが充満する店内
この日は幸運なことに、営業開始直前に店におじゃまし、実際に飲ませてもらいつつ、ご主人の柴山真人さんからお話を聞かせていただくことができた。入店するとまず圧倒されるのが、ご主人がぴたりとその中に収まる、重厚なコの字カウンター。10数席のカウンターに酒飲みたちが隙間なく並ぶ様はいつ見ても壮観だ。営業中はここに、名物のひとつである「つけあげ(さつま揚げ)」の大皿が乗る。
兵六の見どころはいくらでもあって、まずはくまなく店内を見回し、その味わい深さを確認してからでないと、そわそわしてしまって酒を飲みはじめる気になれないほど。
背筋が伸びるといえば、この独特の座席も大きな特徴のひとつ。
一見すると座り心地が良いようには見えない、2本の丸太を並べただけの腰かけ。実際に座ってみると、カウンターの高さとあいまって、体にぴたりとハマる。そして、背もたれがないので、自然とスッと背筋が伸びる。それが兵六に集まる酒飲みに漂う“達人感”の理由のひとつであり、初代のこだわりだったのかもしれない。
さて、ひととおり店内を愛で終えたので、いよいよ始めさせてもらうことにしよう。
まずはビールから。お通しはエノキとキュウリの和えもの。あかかぶ漬を注文し、すっかり春らしい気候にぴったりの爽やかなスタートになった。
書店から始まった兵六の歴史と、伝統の餃子
兵六の創業は戦後まもなくにまでさかのぼる。初代・平山一郎氏は、鹿児島の出身。上海へ留学し、終戦まで働いていた。終戦後、家族とともに鹿児島へ引き上げてくるも、商売をしないことには暮らしてゆけない。本が好きだった一郎氏は一念発起し、日本一の本の街、神保町で『平山書房』という書店を開業した。だが、もともと士族の出で、商売がうまいわけではなく、すぐに倒産。続けてミルクホールに業態を変えるもうまくいかない。そんなとき、当時鹿児島県知事をしていた鹿児島時代の先輩が、「東京でこっちの焼酎を売ったらどうだ?」と提案してくれた。それに加え、上海時代の知人に餃子の作りかたを教えてもらって、餃子、炒菜(チャーサイ)、炒豆腐(チャードウフ)などを出す酒場をやってみようと生まれたのがこの店だった。
当時、九州の焼酎を東京で出すような店は珍しく、そのうまさは徐々に東京の酒飲みたちの間に浸透していった。「あそこの餃子はうまい」と噂になり、人が集まるようになった。故郷鹿児島の味、「つけあげ」も人気を呼んだ。そうしてついに商売は軌道に乗り、現在まで続く名店になったというわけだ。
誕生ストーリーを聞いてしまえば重みを感じざるをえない、伝統の餃子。だが、肉々しい餡とパリッと焼き上げられた皮のハーモニーは軽快そのもので、ビールがぐいぐい進む。何十年も前の客たちも、この餃子をつまみに飲んでいたんだなぁ。
こちらも創業当時からの人気メニューで、いわゆる野菜炒め。シャキシャキの野菜と豚の旨味、そしてコショウたっぷり。間違いのない酒のつまみだ。ちなみに『兵六』には数年前まで空調がなかった。夏は窓を全開にして営業するが、どうしてもすごい暑さになる。それでも常連たちはここに来て、大汗をかきながら豚肉と野菜たっぷりの炒菜を食べ、スタミナをつけて帰っていったのだという。
それから、現在の兵六名物といえば、忘れてならないのが「兵六あげ」。
現在、カウンター奥の厨房をメインで仕切っているのは初代の次女、茅野邦枝さん。当然親戚にあたるため、柴山さんのことを真人くんと呼ぶのも微笑ましい。兵六あげは、そんな邦枝さんが考案したメニュー。3つ並んだ油揚げの中身はそれぞれ違い、左から、納豆、チーズ、ネギ。表面の醤油が焦げ、たまらない香ばしさとなった油揚げと納豆やチーズの相性は言わずもがな。独特なのがネギで、味噌や砂糖を使った甘じょっぱさと、シャキシャキのネギのピリリとした辛味が絶妙すぎる。ちなみに兵六あげには、まかないから昇格した「兵六上げII(ツー)」というバージョンもあり、こちらの中身はネギとチーズのミックスだそう。
開け放たれた入り口と窓が通り道となり、店内に爽やかな風が抜ける。この心地よさは気候のいい時期だけの特権。今この瞬間の空気感は、何十年も前とまったく変わっていないのかもなと想像すると、いよいよ酒がうまい。
鹿児島焼酎の定番スタイル
ちなみに3代目店主である柴山さんは、初代のお孫さんというわけではない。2代目は初代の長男が努めたが、50代という若さで亡くなられてしまった。しかし、常連たちの「店を続けてほしい」という想いは強く、親戚や知り合いが当番制で店を続けることになった。そのなかのひとりとして、当時は学生で、しかも飲食経験すらなかったのにも関わらず声がかかったのが、初代の弟さんの息子にあたる、柴山さん。当初は月曜日の担当だったが、ひとり辞め、ふたり辞めと自然淘汰されてゆくうち、最後に残ったという、なんとも数奇な経緯。そうやって3代目に就任し、早20年以上が経つという。
そんな、なんとも興味深い老舗酒場ならではのお話を聞かせてもらいつつ、鹿児島焼酎をいただくことにする。
お燗の焼酎に、やかんに入ったお湯がセットで出てくるのがこちらの定番スタイル。好みにもよるけれど、ぐいのみに先にお湯を入れ、それから焼酎を注ぐことで、味がまろやかになる。
お燗の焼酎に合わせようと、ちょっと渋めのつまみを。柚子が香る洗練された味わいだ。
店内だけの独自憲法!?
ところで兵六には「兵六憲法」なる絶対のオキテがあるとの噂もささやかれる。
と聞くと、そうではなく、こちらは初代がどこかで見つけて気に入り、店に貼った「酒紳四戒」というものだそう。
「他座献酬」同席者ではない他のお客に自分の酒を注ぐこと
「大声歌唱」大声で歌うこと
「座外問答」他のお客に議論をふっかけること
「乱酔暴論」酔っ払って暴論を吐くこと
以上を禁ずるという意味。客それぞれが自分の時間を快適に過ごすために、大変理にかなった決まりだと思う。では「憲法」の存在は?実は、開店当初から出版関係の客が多かったこともあり、初代が趣味で作って配っていたこんな冊子がある。
この1冊だけではなくてバリエーションも多数あり、内容はその時々に初代が感じていたことなどで、冊子のなかにこの店だけの決まり、憲法のようなものが箇条書きされているわけではない。つまり「兵六憲法」とは、この本の噂がひとり歩きして伝わった、酒場の噂話、とでもいうものだろうか。本当に、どこまでも文化的な店だ。
店主からのメッセージ ~人と関わるのが苦手な人にこそ向いているお店を~
「あの、実は僕って、コミュ障な人間なんですよ。こんな場所で周りを人に囲まれている状況、本当は辛くてしょうがない(笑)。だからこそ、同じように人と関わるのが苦手な人にこそ向いているお店を作っているつもりなんです。例えばさっき『他座献酬』はダメという話が出ましたけど、コミュ障の人って、例えば隣の常連さんからお酒をもらっちゃったりすると、『この人に何かおかえしをするまでは帰れないんじゃないか?』と思って、帰れなくなっちゃうんですよね。それで自分の限度を超えて飲みすぎてしまったり。その他、四戒すべてが理にかなっていて、みんな飲みに集まっているけど、誰かが絡んでくるようなことはありません。もしそういうことがあれば、すぐに止めますから。僕は、『ひとりで静かに飲みたい』というお客さんを全力で守りたいと思っているんです。」(柴山真人さん)
「10年前くらいから特に思っていることなんですが、若いお客さんに何か料理をお出ししたりすると、よく『美味しそう~! 』って言ってくれるんですね。それって、一緒にいるお客さんや隣のお客さん、それにこちら店員の側、みんなの幸せな気持ちが増幅する言葉だと思うんです。ある時期から“空気を読む”なんて言葉が一般的になりましたけど、最近の若いお客さんは時代のせいもあってか、無意識にそうやって良い空気を作ろうとしてくれているのかな? なんて思うんですよね。それがすごく興味深い。
グルメサイトを見て、点数が高いから行くとか、インパクトのある名物料理があるから行く、というのもいいと思うんですけど、こういう個人店には、それだけではない空気感や、プラスαの部分がたくさんあると思っています。ひとり静かに飲めるけれど、寂しくない。兵六はそういう店だと思っているので、むしろ若い方が酒場の世界の第一歩を踏み出すのにはぴったりなんじゃないかな?(笑)」(柴山真人さん)
柴山さん、兵六のみなさん、ごちそうさまでした!
『兵六』店舗詳細
取材・文・撮影=パリッコ