が、ある時、ふと店の近くで少しばかり時間が空いたことがあり、なんだか今こそがタイミングのような気がして、思い切って戸を開けてみた。するとそこには、東京駅からすぐ近くという場所がら、幅広い世代、性別の客たちが幸せそうに飲む、ちょっと拍子抜けしてしまうくらい穏やかな空間が広がっていた。もちろん、超老舗ではあるので、店内の隅々にまで威厳が満ちている。けれども、決して気取って名酒の味をじっくり味わうだけの店ではない、活気と居心地の良さがある。僕は、これぞ大衆酒場の真髄と感動した。

帰り際、ご主人に、「初めて来たんですが、素敵なお店ですね。実はもっと敷居の高いお店だと思っていて……」とお伝えすると、「よくそう言われるんですけどね、うちはあくまで気軽な飲み屋だから。1000円だけ持って、酒一杯とつまみ一品だけ楽しんで帰ってくれたって、ぜんぜんかまわない。それに、ここらには創業100年を超える老舗の蕎麦屋なんかごろごろありますから、うちなんかまだまだ鼻ったれですよ」と、笑いながら返してくれた。以来、東京駅あたりで用事があれば、ふくべに寄れる時間はないかとつい考えてしまう、大好きな店になった。

昭和39年から変わらない、圧巻のカウンター

東京駅八重洲口近く。
東京の粋が凝縮されたような店がまえだ。

創業は昭和14年、一度は戦争で焼け、そのすぐ近くに場所を移して建て替えられたのが昭和39年。以来ずっと同じ場所、同じ建物で営業を続けている。一歩店に入れば、その圧倒的な味わいに、誰もが感動することだろう。

1階は、入ってすぐに左右のフロアに分かれていて、右側は複数人でもわいわいと飲めるテーブル席。2階は予約すれば宴会ができる座敷席。が、『ふくべ』の魅力を最大限味わいたいならば、やっぱり店内へ入って左側に進んだカウンター席につきる。

営業中は活気あふれるテーブル席。
ヒノキ一枚板のカウンターが重厚なカウンター席。

ここで、目の前にずらりと並んだ酒瓶と、ご主人が酒を燗する名人芸を眺めながら飲むのは、大衆酒場文化の真骨頂ともいえる体験だろう。

酒飲みとしての自分を、少しだけ成長させてもらえる気がする空間。
日本酒好きにはたまらない眺めだ。

酒は厳選された41種類が用意され、基本的にラインナップは変わらない。が、ここに来たらどうしても味わっておきたいのが、カウンター内に鎮座する「菊正宗」の樽酒だ。

一番人気で、この四斗樽が1週間ほどで空になってしまうというから驚く。

取材時、体調を崩されてしまったというご主人に代わって店を切り盛りされていたのが、3代目の北島正也さん。2代目の正雄さんも、定年まで銀行に勤めあげ、それからこの店を継いだという経歴の持ち主。正也さんも5年前まではまったく別の仕事をしていたんだけど、初代である祖父が入院した際、「『ふくべ』のこれからについてどう思っているのか?」という話をしたことがきっかけで、「せっかくお客様が残してきてくれた店の歴史を残したい」と考えるようになったのだそう。

3代目の北島正也さん。

大好きな店があっけなくなくなってしまうことも珍しくない昨今。文化遺産のような酒場が、こうして次の世代に受け継がれていく。あまりにも尊いことで、頭が上がらない。「うちも3代でやってますけど、ありがたいことに最近は、親子3代で来てくれるお客様もいるんですよ。いろんな方との出会いがあるし、楽しくやらせてもらってます」。そう言って笑う正也さんは、本当に頼もしく見えた。

酒器や注ぎかたにも美学が

さて、そろそろ飲みはじめよう。菊正宗の樽酒は、冷酒、冷や(常温)、お燗、3種類の用意があるそうで、6月とはいえすっかり夏の陽気なこの日は、冷たいやつからお願いすることにした。

ところで『ふくべ』は、客に出す酒の注ぎかたからして美学がある。まず、20年以上使い続けられ、すっかり角の丸くなった一合升に、すれすれの酒を注ぐ。それを専用のじょうごで、徳利に注ぐ。徳利は、酒はお燗をすると若干膨張することから、きっちりと一合一勺が入るように作られた特注品。すべての作業を客の目の前ですることで、ごまかしなく、いつでもまっとうに一合の酒を出しているという証明になるというわけだ。

ちなみに『ふくべ』とはひょうたんのことで、ひょうたんがデザインされた徳利がかわいい。
この升がどれだけの酒を注いできたのか、想像もつかない。
お通しの昆布の佃煮とともにお盆に。これがカウンター席の基本スタイル。菊正宗樽酒は一合700円。

冷酒をおちょこに注ぎ、一口飲んで深呼吸。シンプルにうまい酒の味と鮮烈な樽の香りがたまらない。昆布をちびりとやって、酒もまたちびり。そうだ、こんなにもミニマムな構成で、こんなにも幸せになれるのが、大衆酒場という場所だった。

つまみのなかでも人気が高いという、たらこ700円。

粒のしっかりした上質なものを使い、外側を香ばしく、なかはレアーなままになるよう炙ってある、酒場ならではの一品。プツンと噛みしめれば、塩気と魚卵のうまみがゆっくりと広がり、そこに樽酒を流しこむ幸福!

刺し身3点盛950円。

今日は少し贅沢に、刺し身を3点盛りで注文してしまった。古くから付き合いのある築地の業者から仕入れるという魚は、どれも鮮度抜群。これぞ大人の贅沢だ。

次は常温でもらおう。樽の中身の量によっても水圧が変わるので、注ぐのにも技がいる。
くさや700円。

『ふくべ』の名物のなかでもちょっと珍しいのが「くさや」。魚は青ムロアジで、新島から直送されたもの。くさやを食べたことがないという人や、苦手だという人は多いかもしれないけれど、香りがかなりマイルドなのでハードルは高くない。何より、その身に凝縮されたとんでもない旨味が日本酒に合いすぎるのだ。実際、いつ行ってもかなりの人が、このくさやをつまみに酒を飲んでいる。

玉子かけご飯をつまみにシメの一杯を……

さて、そろそろ『ふくべ』の真骨頂ともいえる、風格ある燗つけ器で温められた燗酒をいただこう。

自分の燗酒が着々と育ってゆくのを目の前で見られる喜び

温められることによってさらに味が丸くなり、ふわりと広がった樽の香りがたまらない。あぁ、この一杯で、全身がほぐれきったな……。

そろそろ身も心も大満足なんだけど、そういえば、前からずっと気になっていたメニューがある。それが、海鮮丼、イカ刺し入り とろろ丼、鮭ほぐし丼などの、いわゆるご飯もの。せっかく取材に来たことだし、どれかひとつシメに味わっておこうかと思って検討。茨城県奥久慈から取り寄せるという鶏卵を使った、奥久慈 玉子かけごはんを選んでみることにする。僕のタイミングが悪くてまだ食べたことがなかったんだけど、日替わりで金曜日と土曜日にだけ食べられるという「奥久慈のゆで卵」も前から気になってたことだし。

奥久慈 玉子かけごはん450円。

小鉢の醤油の上に落とされた、色の濃い生卵。茶碗のご飯の上には、例の昆布も乗っている。そして、酒もまだ残っている。老舗酒場で玉子かけご飯をつまみに酒なんて、なんだか背徳感のある飲みかただな……。

がーっとかき混ぜて

スルスルっと一口すすってみると、驚くほど濃厚で味の濃い玉子と醤油の融合に、昆布の旨味まで加わって、ちょっと感動的な美味しさ! 米と米だから、当然酒にも合ってしまう……。新しい扉を開いてしまった気分。

店主からのメッセージ

「うちはよく、入りづらい雰囲気なんて言われるんですけど、店内はご覧の通りで、昭和にタイムスリップしたような空気が楽しいと喜んでもらえることも多いです。そういえば、僕がこの店に初めて妻を連れてきたとき、『なんだかおじいちゃんとおばあちゃんの家に来たみたい!』って言ってましたね(笑)。なので、もし興味があれば、ほんの少しだけ勇気を出してのれんをくぐっていただけたら、きっとリラックスしてお酒を飲んでいただけるんじゃないかと思います。常連さんも優しい方ばかりですし。

まだまだコロナウイルスの影響も不安ですが、アルコール消毒や換気に気をつけて営業しております。

これからも、今までお客様が残してくれた歴史とともに、ふくべの新しい歴史を築いていければと思っているので、よろしくお願いします!」(北島正也さん)

 

『ふくべ』店舗詳細

住所:東京都中央区八重洲1-4-5/営業時間:16:30~ 22:15LO(土は~ 21:15LO)/定休日:日・祝・第2第4土/アクセス:地下鉄浅草線日本橋駅から徒歩3分

取材・文・撮影=パリッコ

神田神保町といえば、古書の街。それから僕にとっては仕事相手である出版社が多数立ち並ぶ、文化的な街というイメージ。そんな神保町の路地にぽつんと、それでいて存在感抜群の提灯をともすのが『兵六』だ。創業昭和23年の老舗で、一見客がふらりと入るのは若干躊躇してしまう、貫禄ある佇まい。実際僕が何度か訪れたのも、知人編集者に連れられてだった。値段も雰囲気も間違いなく大衆酒場ではあるけれど、いつもよりちょっとだけ襟を正して飲む店。それが僕にとっての『兵六』だ。
この店を知るまで、僕はあまり渋谷が好きではなかった。飲める年齢になってからずーっと酒好きで、居心地のいい飲み屋がある街こそが自分の居場所のように感じていた。だから、常に若者文化の最先端であるような、そしてそれを求めてアッパーなティーンたちが集まってくるようなイメージの渋谷という街に、自分の居場所はないと思いこんでいた。
北千住『大はし』、月島『岸田屋』、そして森下の『山利喜』が「東京三大煮込み」と呼ばれていることは、酒場好きの間では有名だ。居酒屋研究家、太田和彦さんが提唱した説が定番化したもので、ここに立石『宇ち多゛』と門前仲町『大坂屋』を加えると「東京五大煮込み」となる。30代になり、それまでの「酔えればいい」という飲みかたから、徐々に酒場自体の味わいに目が向きだした頃から、少しずつではあるけれど、名店へ巡礼のような気持ちで訪れる飲みかたもするようになった。とはいえ、当時はまだ会社員だったから、人気店の口開けに合わせて気ままに飲みに行くようなことはできない。一店一店を大切に、数年をかけてついに五大煮込みをすべて味わえた時は、大きな達成感と感動があった。