“面影心”に突き刺さる写真

宮本常一の著作に『私の日本地図』(*1)というシリーズがある。そのなかの一冊、『武蔵野・青梅』。この本は半分ほどが写真で占められていて、1968年から69年に撮ったと記録されている安楽寺と、すぐそばの軍荼利(ぐんだり)明王堂の写真が載っている。

茅葺き屋根のその寺と明王堂の写真が“面影心”に突き刺さってきた。とりあえず一度は行ってみるしかない、と。もちろん撮影時から50年は経っているので、もう茅葺き屋根はないだろうと頭ではわかりつつ、ひょっとしたら少しは残っているかもしれないと、多少は期待した。

安楽寺は今回初めて知った寺である。近くの、といっても何㎞かは離れているが、ツツジで知られる塩船観音寺へは行ったことがある。そこの山門にはまだ茅葺き屋根が残っていた。ツツジもきれいだったが、筆者には屋根のほうが魅力的なものだった。

そのときは寺の裏にある道をたどって岩蔵温泉へと出て、入浴ができるひなびた宿でひとふろ浴びた。今回のゴールも岩蔵温泉あたり。できたらひとふろ浴びたいが、可能かどうか。

茅葺き屋根は残っていた

東青梅駅から都営のバスで成木三丁目へと向かった。窓外の景色がいい。バスは成木街道を走り、新吹上トンネルを抜け、北小曽木川沿いに北上する。その先で川は成木川に合流し、川沿いを走って成木三丁目でバスを降りた。目の前に長全寺。少し先に行くと、立派な石の門柱があり、その奥の奥に茅葺きの長屋門のようなものがみえる。

門の表札には「下屋敷」と書かれている。不思議に思い長い庭のようななかを抜けて家に近づいてみた。庭は長く数十mほど。昔の豪農なのだろう。立派な茅葺きの門があった。成木熊野神社の鳥居がみえてきた。

安楽寺の玄関口にはまるで草葺きのような長屋門。
安楽寺の玄関口にはまるで草葺きのような長屋門。
成木熊野神社の麓に弁天池があるが、そのほとりにあった弁財天。
成木熊野神社の麓に弁天池があるが、そのほとりにあった弁財天。

神社はかなり上のほうにあるようなので、今回は麓の弁財天と弁天池をみるだけにする。すぐそばに、倒れた旧鳥居が横たわっていた。普通は倒れたものは処分するのだろうが、鳥居に思い入れがあるのか、そのまま鳥居を置いてある。この熊野神社は成木の総鎮守らしく、10月のお祭りには獅子舞なども奉納され、けっこうな人出があると近くの人が言っていた。

神社の先から安楽寺に通じる安楽寺通りへと上がる。緩やかな丘のような見晴らしのよさそうな場所に寺がみえてきた。迎えてくれたのは茅葺きの長屋門と鐘撞堂。なんと茅葺きが残っていた。

安楽寺の鐘撞堂。安楽寺は行基が和銅年間(708-715)に軍荼利明王を安置して創建されたと伝わる。
安楽寺の鐘撞堂。安楽寺は行基が和銅年間(708-715)に軍荼利明王を安置して創建されたと伝わる。

現在、安楽寺の総代をしている加藤秀夫さんに話を聞くことができ、さっそく『私の日本地図』の安楽寺のページのコピーをみてもらった。

「写真にある茅葺きが残っているのは、鐘撞堂と入り口の長屋門だけですね。たしか昭和50年代に寺を改修したんですが、そのときに他は茅葺きをやめたんだと思います。茅も手に入らないし、葺く人もあまりいないのでね。いま残っている茅葺きもカラスがいたずらするんですよ。茅をほじくってね」

安楽寺はそれほど知られてはいないが、加藤さんによると、春には梅と桃の花が咲いてかなりにぎわうそうだ。

「この辺は江戸時代から石灰の産地で、最後まで掘っていたのが奥多摩工業。いまはもう跡だけですが」

青梅は石灰と織物、養蚕で栄えたところだが、とくに成木地区は石灰で潤ってきたところだ。

成木では江戸時代以前から石灰岩を採掘し、それを焼いて石灰を生産してきた。1606年の江戸城改修に伴い、最後の仕上げに使われる漆喰にここ成木の石灰を使うことになった。それ以降、石灰の産地として知られるようになる。

写真では安楽寺のすぐ近くの軍荼利明王堂とその仁王門が茅葺きだったが、二つとも茅葺きはすでになかった。しかし、仁王さまは、50年前と変わらぬ形相でこちらをにらんでいた。

田んぼは弁天様に守られていた

乙黒耕地。右手の並木は成木川沿いにある桜。
乙黒耕地。右手の並木は成木川沿いにある桜。

安楽寺から再び県道へ出て、成木川を渡ってから川沿いに乙黒耕地へと向かった。

乙黒耕地は小曾木丘陵と成木川の間にある東西に細長い田んぼで、面積は3.8haほど。江戸時代に成木川の河原というか、氾濫した土地を50年ほどかけて地元の百姓たちが協力して開田した田んぼである。

「いいところでしょう、ここは。最初の1年間は国分寺から通って農作業をしていたんですが、去年の4月に近くに移住してきました」

こう話してくれたのは坂本浩史朗さん(36歳)。4年前に国分寺で縄文時代からつくられている古代米といわれる赤米をつくり始めた。

「国分寺赤米プロジェクト(*2)というのを立ち上げたんです。最初は白米をつくろうと思ったんですが、たまたま国分寺の東恋ヶ窪で赤米の種もみがみつかり、これをやろうと」

坂本さんたちのやり方は自然農法による米づくり。無農薬、不耕起農法で行うやり方だ。また農機具などは人力のものを使用する。よく民俗資料館などに展示されている古いものだ。

唐箕(とうみ)という中国から江戸時代に伝わった農機具。人力で風を起こして米を選別する。
唐箕(とうみ)という中国から江戸時代に伝わった農機具。人力で風を起こして米を選別する。
岐阜県出身の坂本浩史朗さん。農業は始めるまではまったくの素人だった。
岐阜県出身の坂本浩史朗さん。農業は始めるまではまったくの素人だった。

「一般的な慣行農法が90%で、ほかに有機農法などがありますが、この不耕起農法は1%もないのでは」

経済的にはなりたたない生産性。坂本さんたちは経済優先ではない農業を目指している。

「自然農法を始めてみてわかったのは、人間の都合ではなく多様性を保って作物もつくるという、自然との共存でしょうか。便利になっていく反面、自然や人間らしさが失われることに対して、自分なりに一矢報いたかった」

乙黒耕地のほぼ中心部にちょっと盛り上がった場所があり、二体の弁天様が祀られている。

乙黒耕地の中心部に立つ弁天様。インドの女神で川を神格化したサラスヴァティだ。
乙黒耕地の中心部に立つ弁天様。インドの女神で川を神格化したサラスヴァティだ。

「来たときは草がぼうぼう生えてました。地元の人に聞いたら『庚申塔などがあるのでは』というんです。草を刈ってみると、現れたのは弁天様でした。ここは成木川の河原のような場所なので、何度も洪水が起きたところなんです。だから弁天様を祀ったんだと思います。もともと水の神様ですから」

弁天様は1726年と1761年のもので、古いものは山のほうから流されてこの場所へきたものらしい。いま弁天様は田んぼの真ん中に居座り、周りを見守っているようにもみえる。

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さらに古い時代の話になるが、岩蔵温泉の先に岩蔵住居跡という縄文人が住んでいた跡がある。締めくくりにちょっと寄ってみたかった。

1965年の発掘で住居が三軒発見された。ほんとに小規模な集落だったようで、家の直径は4mほどの竪穴式の住居跡。いまはただの小さな窪地。土地はいくらでもあったろうに、つつましい住居だ。

縄文人が住んでいた丘に立って坂本さんたちがやっていることに思いをめぐらすと、彼らが現代の縄文人のように思えてきた。

 

*1 私の日本地図
民俗学者の宮本常一には膨大な著作が残っているが、そのなかの15冊のシリーズ。未來社刊でいまでも手に入る。

*2 国分寺赤米プロジェクト
1997年、国分寺市で縄文時代から続く古代米の種もみが見つかり、それを育てるために2018年に坂本浩史朗さんの呼びかけで生まれたプロジェクト。最初は国分寺の陸稲でスタートした。

安楽寺と乙黒耕地[東京都青梅市]

【行き方】
JR青梅線東青梅駅から都営バス「成木市民センター」行き約16分の「成木三丁目」下車。

文・写真=清野 明
『散歩の達人』2023年1月号より